相模原市認知症疾患医療センター

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センター長コラム

第9回 拒否という言葉について

 診察をしていると「入浴拒否に困っています」「デイサービスを拒否されて困っています」という相談を受けることがよくあります。そして大抵、その言葉に続いて「お薬でなんとかならないでしょうか」と打ち明けられます。しかし拒否がなくなる薬はありません。拒否に伴うことのある興奮、怒りっぽさを鎮めることができるかもしれない薬はありますが、その効果は鎮静という副作用の二次利用のように感じています。
 拒否という言葉は、医療や介護の世界の中で、まるで認知症によって生じる症状であるかのように語られています。入浴拒否、食事拒否、介護拒否のように、表現する言葉が四文字熟語になると専門性を帯びてきて、途端に「治すべき症状」のように見えてしまいます。薬の服用を拒否する「服薬拒否」という四文字熟語にいたっては、「拒薬」という二文字の略語になり、あたかも精神医学的な症状用語のように見えてしまいます。こうした言葉が医療?介護職の会話の中で使用され、医療?介護の記録の中に書き込まれるうちに、拒否という態度はまるで認知症の症状として認識されやすくなるようです。そして、医療?介護職は拒否という態度を症状として認識すると、「認知症の症状だ」「認知症は脳の病気だ」「脳の病気にはお薬だ」と判断してしまいやすくなるようです。
 もちろん、拒否される人にとってみれば、拒否されるけれどもなんとか入浴してほしい、食事をとって欲しい、デイサービスに行ってほしいと思うでしょうし、拒否されることによって生じる困難さ、苦労は切実なものがあります。しかしだからといって拒否されるという現象を認知症の症状、脳の神経学的な変化による症状として認識し、薬でなんとかしようとするのは、認知症の人中心ではなく、支援する側の都合のように感じられます。
 拒否をした人に拒否をした理由を尋ねてみると、「だって、女(男)の人の前で風呂には入りたくないよ」「だって、好物が何もない」「ぐちゃぐちゃに混ざっていて美味しそうじゃない」「人見知りだから、人の多いところは苦手」「デイサービスに行くと子供相手みたいに声をかけられて悔しい」と、もっともな理由を打ち明けてくれます。そしてそのもっともな理由について尋ねられず、打ち明ける機会のないまま、拒否をしている人は周囲の人たちに「認知症の症状で拒否している」と思われていることが多いようです。人は誰しも苦手なこと、恥ずかしいこと、つらく感じることはしたくないものです。自尊心を傷つけられる状況を好む人はいません。
 医療?介護にたずさわる人は「拒否」という言葉が頭の中をかすめた時こそ「拒否という症状と認識してしまっている」と自覚し、それを認知症のせいと決めつけず、そうした態度が生まれる理由を本人に尋ね考えることが重要なのではないでしょうか。そしてその先に、本人が強く拒否という態度を示す必要のない暮らしのための解があるはずです。

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