相模原市認知症疾患医療センター

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センター長コラム

第18回 認知症のある人と自動車運転免許証のこと

 外来で診療していると、自動車運転免許証のことについて相談されることがあります。相談元の多くは認知症のある人ではなく、ご家族や地域包括支援センターの職員さん、ケアマネージャーさんです。相談する人たちは、認知症のある人の交通事故を心配しています。「本人だけならまだしも、他人様を事故に遭わせてしまったら大変です」と言われることもあります。この言葉を耳にする時、認知症のある人の表情は少し寂しげです。「本人だけならまだしも」ではないはずです。本人の交通事故も悲しい出来事です。しかし、こうした発言をしてでも、なんとかして自動車運転をやめて欲しいと周囲の人が思わずにはいられない理由があるのも事実です。

 実際、認知機能の低下や認知症診断と交通事故の発生には関連があるという報告があります。最近、韓国で60歳以上の人を対象に行われた比較的規模の大きな研究では、認知機能が高い人の方が将来の危険運転が少ないと報告されています。そして何より、そばにいる家族は助手席や後部座席でヒヤリとする体験をしています。小さな接触事故を目の当たりにしていることも少なくありません。自動車運転をやめて欲しい、免許証を返納して欲しいと強く願う相談者の切実な想いもよく理解できます。

 百戦錬磨のベテラン支援者の中には、販売店や修理店と口裏合わせをして、自動車のキーを隠す、車両を処分するなどといった経験を武勇伝のように語る人がいます。どうにもならないとき、危険性が高いときにはこうした嘘による対処もやむを得ないのかもしれません。嘘も方便といいます。しかし嘘は後味の悪いものです。認知症のある人も嘘に気づかないわけではありません。嘘をつかれたと気づけば、認知症のある人の心は傷つきます。認知症のある人が嘘に気づかなかったとしても、周囲の人の心の中には「嘘をついても気づかれまい」「困ったら嘘で対処することができる」という、認知症のある人を置き去りにすることを是とする認識が生まれかねません。

 認知症のあるなしに関わらず、自動車運転免許証には所有している人、ひとりひとりの物語があります。自動車学校で教官に叱られ続けた苦労、初めて交際相手を乗せて遠出をした記憶、初めての子供が生まれそうな妻を後部座席に乗せて冷や冷やしながら病院に向かったこと、高度経済成長期には自動車を所有し新車に買い替えていくことが秘かに自慢だったこと、大学受験当日に緊張している娘を乗せて励ましながら会場に向かったこと。認知症のある人と自動車運転免許証にまつわる話をしていると、自動車を所有すること、運転すること、自動車運転免許証を所有するということにまつわる物語は、人それぞれにあり、人生に彩を添える大切な要素になっていることに気づかされます。改正道路交通法にまつわる議論の中では、交通手段が奪われ生活上の負担が増すという意見をよく聞きます。もちろんこうした実際的な課題も重要でしょう。しかし、認知症のある人と自動車にまつわる話をしていると、自動車を所有すること、運転すること、免許証を所有することがもたらすその人の誇りや張り合いというものにも目を向ける必要があるように感じています。

 こうした点に着目するならば、頭ごなしに「あなたは認知症があるので危険ですから返納しましょう」という言葉は、どんなに丁寧な言葉で伝えても、認知症のある人にとってみれば受け入れ難いことなのではないでしょうか。返納ありきではなく、折に触れて自動車運転にまつわるその人の物語に耳を傾け、対話を重ねることから始める必要があるように思います。ですから運転が危険な状態になる時期を待たず、早い時期から対話を重ねる必要があるでしょう。対話を重ねる中で、自動車運転免許証のことをどうするかということを想い、認知症のある人が判断することを支援していく、そんな姿勢が周りにいる人たちには求められることのような気がしています。

 認知症になっても安全に目的地にたどり着くことができる技術が開発され、安心して利用できる自動車が開発される可能性があるのなら、その日が早く来て欲しいものです。認知症があっても、自動車がなくても、生活に困ることのない交通網が備わった街が作られることも期待したいものです。その日が来るまでは、早めに自動車や免許証のことについて大切な人と対話し考えていくことが今は求められているように思われます。

引用
  • Kim JS, Bae JB, Han K, et al. Driving-Related Adverse Events in the Elderly Men: A Population-Based Prospective Cohort Study. Psychiatry Investig. 2020 Aug;17(8):744-750.

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