相模原市認知症疾患医療センター

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センター長コラム

第19回 心の傷という視点

トラウマインフォームドケア(Trauma-Informed Care: TIC)という言葉をご存知でしょうか。TICは対人援助に関わるすべてのスタッフが援助関係において、トラウマ(心の傷)の影響を対象者と支援者が認識を共有し、心の傷がもたらす反応を理解しながら関わり合うことで、再トラウマ化を防ぎ、回復を促進させるケアシステム全体を意味します。

様々な経緯で生じた心の傷は、心と身体、生活に様々な影響をもたらすことが知られています。例えば虐待を受けた子どもは覚醒水準の調整がしづらくなり、大人になってからも寝つきが悪くなることや悪夢に悩まされることがあります。いじめの被害にあうと周囲の人への恐れや猜疑心を抱きやすくなり、自分自身への肯定的な認識が不安定になり、対人関係の調整が難しくなることがあります。被害を受けた時と類似した状況、例えば大きな声を耳にする、強い口調で叱責されるなどの刺激が加わると、身動きが取れなくなってしまうことや、情緒に強い反応が生じてしまうこともあるようです。様々な認識の仕方も心の傷の影響を受けるので、支援する人との関係が不安定になることもあります。睡眠や感情に生じる苦痛を自ら緩和するために、アルコールやタバコの使用量が増加することや、依存性のある薬の使用量が増えやすいことも指摘されています。

TICは虐待被害への支援、依存症のある人への支援にまつわる議論でよく耳にしますが、認知症のある人へのケアで取り上げられる機会は少ないようです。しかし認知症のある人へのケアにおいても、TICの理念を知ることはとても大切なのではないかと考えています。

長らく睡眠薬が処方され、それでも夜になると落ちつかない、もの忘れのある高齢の人について相談を受ける機会がありました。お会いしてお話に耳を傾けていると、「悪い夢を見て眠れない」と述べました。「子どもの頃につらい体験をして、誰にも語らないまま我慢している人の中には、その体験の影響で睡眠が浅くなることや、悪夢が増えることがあるようです」「子どもの頃はちょうど戦時中だったと思いますが、当時はどんな生活だったでしょうか」と尋ねました。すると、戦時中に戦闘機の機銃掃射から命からがら逃げた体験について語りました。一通り語り終えると「こんな話をしたのは今日が初めてだ」「あの頃はみんな苦労して悲惨な思いをしていたから、たいしたことではないと思っていた」「でもとても恐かった」と涙ぐみながら語りました。しばらくして再会したときには「お話しして以来、悪夢を見ることはなくなりました」と笑顔で語りました。

筆者がしたことは心の傷が心や体にもたらす影響について共有し、心が傷ついた体験について語りやすい状況を作り、その語りに耳を傾け、労い、慰め、語ることを承認したに過ぎません。しかしこうした心の傷に着目し、安全や尊厳が守られた環境の中で対話をすることは、高齢の人、認知症のある人の支援においても大切なことのように思います。無理強いされて医療機関に連れてこられた人、納得する機会のないまま施設や病院に入院した後、心穏やかに過ごすことのできない人、生活の中での失敗を身近な人に叱責されている人、安全の確保を理由に強制的な入院や身体拘束の処遇を経験する人。認知症のある人の支援においても、こうした心に傷が生まれかねない場面があります。幼少期の体験が心や行動の変化の理由になっていることもあります。ですから生育過程で心が傷つく体験、逆境的な体験があったかどうかを尋ねることはとても大切です。尋ねることで語りやすい状況が生まれ、それが心や身体の変化を支援者と対象者が理解を共有しやすくする状況を生み出します。心の傷に着目し、支援が新たな心の傷を生まないよう配慮すること、心や行動の変化の理由を考える際に、心の傷に着目することは、認知症のある人の支援においても意識したいことのように思われます。

博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@感染症の流行に伴い、標準予防策(standard precaution)という言葉を報道の中でも耳にする機会が増えました。標準予防策はもともと、医療現場における普遍的な感染防御の方法として普及し、あらゆるケアの現場にも適用されるようになりました。ウイルスと同様に、心の傷も人々の生活に大きな影響を及ぼします。医療、教育、福祉、司法など様々な領域でTICの必要性が認識されつつあります。心の傷、トラウマの領域で発展したTICの理念が、認知症のある人へのケアにたずさわるあらゆる人たちにも普及することが求められるように考えています。

引用
  • 野坂祐子: トラウマインフォームドケア公衆衛生の観点から安全を高めるアプローチ. トラウマティック?ストレス, 17(1), 80-89, 2019.

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