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北里柴三郎と新日本銀行券千円札
-コッホの日本訪問と村木キヨ、そして稲村ケ崎のコッホ碑-

檀原宏文

博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@名誉教授
一般社団法人北里柴三郎記念会理事長

檀原宏文

はじめに

(写真1)新日本銀行券千円札

(写真1)新日本銀行券千円札
出典:国立印刷局ホームページ

2024年、博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@薬学部は創設60周年を迎えました。皆様と共にこの節目を祝いたいと思います。さらに、もう一つ、この年、我々には素晴らしい贈り物が届けられています。それは7月3日に発行された新日本銀行券千円札です。これには北里柴三郎先生の肖像と、その裏面には葛飾北斎の「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」がデザインされています(写真1※)。

この肖像は北里先生が55歳~57歳(1908年~1910年)頃のものとされており、このお札からは伝染病研究所の所長としてわが国における将来の医学?医療の礎を築くために懸命に働いていた当時の先生の姿が見えてきます。

このお札から見えてくるものはまだあります。それは、1908年、不思議の国日本を訪れたローベルト?コッホが愛弟子の北里先生を話し相手に過ごした鎌倉での静かな日々と日本旅行、そして1910年、ドイツに帰国したコッホのバーデン?バーデンでの急逝の様子です。さらに、19歳で海を渡り、コッホの最期を看取った由比ガ浜?海浜院ホテルのメイド村木キヨの姿も見えてくるのです。

※北里柴三郎記念博物館には学校法人北里研究所用として手渡された新千円札(AA000003AA)が展示されています。

第1章 ローベルト?コッホの日本旅行

コッホは晩年、世界一周旅行を計画しました。計画は10ヶ月をかけて、ロンドン、アメリカ、日本、そして中国からインドを経由してベルリンに帰るというものでした。
旅行の第一目的は、北里柴三郎を日本に訪ね、美しい日本の秋をゆっくり見て回ることにありました。当初は、仙台から長崎までを見て回るつもりでした。

しかし、本国ドイツから届いたアメリカでの国際結核会議への出席命令によって、日本での滞在は74日間に短縮せざるを得なくなりました(1908年6月12日~8月24日)。

6月12日–7月2日 帝国ホテル/日光金谷ホテル
7月3日–7月26日 鎌倉海浜院ホテル
7月27日–7月29日 箱根富士屋ホテル
7月30日–8月19日 名古屋~宮島 *
8月20日–8月24日 横浜オリエンタルホテル

*:名古屋 岐阜 伊勢 奈良 京都 大阪 神戸 高松 尾道 宮島

北里柴三郎はコッホの旅行のほぼ全行程に付き添い、志賀潔(1871–1957、志賀赤痢菌の発見)と宮島幹之助(1872–1944、寄生虫学者)が分担してこれを補佐しました。

私はこのうち、日光、伊勢、神戸、宮島での行程に注目しました。旅行中、コッホは日本の何に関心を持ち、どのように行動したのか。このような観点から北里柴三郎とコッホを考えてみたいと思ったからです。

1. 日光(6月27日~6月30日)

日光では降り続く梅雨が一行を金谷ホテルに閉じ込めました。その徒然にコッホはベルリン時代の北里柴三郎のことを話し始めました。
「???最初、北里を見た時はドイツ語を上手に話すのに驚いたに過ぎなかった」。
「或る日、北里は『破傷風菌の純粋培養をした』と、一本の試験管をもって部屋に入ってきた。しかし、これは老練のフリュッゲ(Carl Flügge、1847-1923、ゲッチンゲン大学教授)さえ成功しなかった難問題であるから容易には信用できなかった。そこで、半信半疑にその培養を以て動物実験をやらせてみたところ、間違いなく破傷風の症状を発した。直ちに北里の大成功を祝した。非常な喜びであった」、と追想したそうです。

そして、話は血清療法とベーリング(Emil A. von Behring、1854-1917、第1回ノーベル生理学医学賞受賞)との関係に及んで、「引き続き破傷風毒素の研究を奨励したが、遂に北里は免疫血清を作り上げた」。「ベーリングはジフテリアの免疫について研究していたが、常に破傷風の研究に導かれて進歩できた。今日、有効なる血清療法が存在するのは北里の破傷風の研究に基づいている」、と話したそうです。

思いがけず北里柴三郎の若い頃のことが、直接、コッホから聞くことが出来ました。宮島幹之助の感動が伝わってきます。

2. 伊勢(8月1日)、神戸(8月12日)、安芸宮島(8月14日~19日)

伊勢神宮への参拝はコッホにとって今回の旅行中での最大の関心事であり最も緊張したことであったようです。そして、参拝後、志賀潔らには、「真に、神聖の感に打たれた」と語ったのでした。その理由として神官の服装が「優美」であったこと、域内が「清浄」で「幽遠」であったことを挙げています。「優美」、「清浄」、「幽遠」、神宮参拝に際してこの3つの言葉を発するところにコッホの高い精神性を見るのです。

神戸では医師会から和服一組が夫妻に贈られました。コッホは、「精神上は深く日本を愛慕してきたが、今は外形に於いてもまた日本の固有美を身につけることが出来た」。「私はこの日本服をベルリンでも着て長く日本の友人を記憶に留めたい」と謝辞を述べました(写真2)。

安芸宮島の厳島神社は旅行の最終地でありクライマックスでもありました。しかし、北里柴三郎はゾッとするのです。コッホの体は京都に続いて此処でも異変を発したのです。神社に参拝した後、そうは高くない御岳に登った時のことでした。心臓に激痛が走り、脈が驚くほど結滞していました。しかし、このことはコッホも北里柴三郎も周りには黙っていました(写真3)

日本旅行を終えた時、コッホは最愛の一人娘に手紙を書いて、日本の印象をこう語りました。「私たちは不思議の国を旅行しました。世界で最も美しく興味のある国の一つである日本を見たのです」。

(写真2)和服を着たコッホ夫妻

(写真2)和服を着たコッホ夫妻
学校法人北里研究所 北里柴三郎記念博物館所蔵

(写真3)厳島神社にて、コッホ(左)、北里柴三郎(右)

(写真3)厳島神社にて、コッホ(左)、北里柴三郎(右)
学校法人北里研究所 北里柴三郎記念博物館所蔵

3. 「コッホ像」と「北里像」

晩年のコッホに会ったことのある若いアメリカ人はコッホの印象をこう語っています。「忍耐強く、本能的に完全を好むコッホは、人々のリーダーと言うよりは一人の仕事師であった」と。このアメリカ人の印象は、今回、日本旅行中のコッホに見た私の「コッホ像」にも近いものがあります。

北里柴三郎はコッホとソックリだと言われてきました。しかし、私の「北里像」はこのアメリカ人が言う意味での一人の仕事師というのではなくむしろ、人々のリーダーであったという方が当っていると思います。

幼少の頃は武士に、そして、青年になると軍人に憧れた北里。これに対して、カブト虫が好きで、化石が好きで、狐まで飼ったことのあるコッホ。ローベルト?コッホと北里柴三郎、この二人が互いを尊敬し合えたのはこういうところの違いにその根本があるのではないか。そのような気がします。

第2章 コッホの最期を看取った村木キヨ

(写真4)村木キヨ

(写真4)村木キヨ
海浜院ホテル時代
鎌倉市中央図書館所蔵

日光を後にしたコッホがしばらく落ち着いたのは鎌倉の海浜院ホテルでした。コッホはここでメイドとして働く村木キヨを知り、キヨは夫妻に気に入られます。そしてキヨはコッホの日本旅行に付き添い、さらにドイツにまで渡ってコッホの世話をすることになるのです(写真4)。

1. キヨ(1889年-没年不詳)

キヨに関して唯一残されている公式資料は旅券です。

本名: 村木キヨ
身分: 長吉三女
本拠地: 神奈川県鎌倉郡鎌倉町乱橋材木座776
渡航目的: 外人雇
年齢: 19歳11ヶ月
旅券の発行日: 1908年8月14日

この旅券はキヨが外人雇としてドイツに渡るために発行されました。コッホと夫人はキヨを近くで見てきて、お手伝いさんとして国に連れて帰りたいと思うようになったのです。キヨの実家があった鎌倉の材木座は外国人の別荘が多く建っていました。また、キヨ自身が海浜院ホテルのメイドでしたから外国人に接することや外国で暮らすことの抵抗はほかの女性に比べると少なかったかも知れません。しかしそれでもコッホの申し出は簡単ではなかったでしょう。

北里柴三郎はコッホの心臓が尋常でないことを旅行中に知りました。このような状態でアメリカでの国際結核会議をこなさなくてはならないことを心配した北里柴三郎はコッホの希望