53号
情報:農と環境と医療53号
2010/1/1
新しい年を迎えて:平成22(2010)年元旦
新(あらた)しき 年の初めの 初春の
今日降る雪の いや頻(し)け 吉事(よごと)
今日降る雪の いや頻(し)け 吉事(よごと)
新年には、万葉集の大伴家持の歌が昔から好まれています。新しい年、平成22年が明けました。おめでとうございます。この歌のように、皆様にとって吉い事が重なりますよう。
博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@では「農医連携」を新たな学域として発信しています。博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@学長室通信「情報:農と環境と医療」はこれに関わる情報で、平成17(2005)年5月から毎月提供し続けています。昨年の平成21(2009)年5月で目標の50号に達し、いったん終了しました。しかし、平成21年9月から再開する機会に恵まれ、すでに51号と52号を発刊してきました。これからは、2ヶ月に一度の計画で情報を提供する予定でいます。以前にも増す叱咤激励の程よろしくお願い申し上げます。
これまで推進してきた農医連携にかかわる教育、研究および普及などについて振り返り、今年も新たな思いで、農医連携の学域を充足させていかなければなりません。そこで、昨年の経過を振り返ってみます。
まず上述した「情報:農と環境と医療」の発行です。これは農医連携に関わる情報を関係者が広く共通認識するための情報です。その内容には、「挨拶」「学内動向」「国内情報」「国際情報」「総説?資料?トピックス」「研究室訪問」「文献紹介」「本?資料の紹介」「講演会」「農医連携を心したひとびと」「言葉の散策」「Agromedicine」「Geomedicine」「その他」などがあります。
次に「博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@農医連携シンポジウム」です。2006年3月に第1回が開催され、2008年10月の開催で6回目を迎えました。第1回から第6回までのシンポジウムが終了する度に、それらの内容を「養賢堂」から冊子として出版しています。昨年は、第6回のシンポジウムの内容を「博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@農医連携学術叢書6号:食の安全と予防医学」と題して養賢堂から出版しました。さらに、第1回から第6回のシンポジウムのアブストラクトを英文にまとめ、「Agriculture-Environment -Medicine」と題して Yokendo から出版しました。この冊子は、博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@農医連携学術叢書7号として位置づけています。
続いて教育です。平成20年の4月から一般教育部の教養演習Bで新たに「農医連携論」(1単位)が開講され、医学部、獣医学部、薬学部、生命科学研究所などの教授がこの講義を分担しています。その内容については、すでに「情報:農と環境と医療 40号」で紹介しています。さらに新たに、平成21年9月から獣医学部動物資源科学科の動物資源科学概論2で「農医連携論」が始まりました。教育目標は次の通りです。
病気の予防、健康の増進、安全な食品、環境を保全する農業、癒しの農などのために、今世紀に予測される地球規模での食料危機と環境問題を解決し、人類と生物の共存を実現しながら、生物資源の開発利用を図るという、農学領域に求められている課題を解決するために、農医連携の科学や教育の必要性を強調してもし過ぎることはない。本講義は、動物資源科学領域と医学領域の接点を見出し、現代社会が地球規模で抱える問題点を解決し、人類が健康で豊かな生活をおくるために、農医連携の必要性を修得することを目標として掲げる。生命科学を標榜する博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@の学生が農医連携の重要性を認識することは極めて重要である。
他には、平成19年4月の入学生から医学部1年生を対象に行われる「医学原論?医学原論演習」の一部、獣医学部獣医学科1年生を対象に行われる「獣医学入門 I」および生物環境科学科の「生物環境科学概論 I」の一部で行われています。
さらに医学部では、夏期休暇を利用し「医学原論演習」の一環として、獣医学部附属フィールド?サイエンス?センター(FSC:八雲牧場)で行う「八雲牧場訪問及び講義」に希望者が参加しています。2007および2008年には、それぞれ6人および8人の学生が参加しています。2009年は獣医学科の学生2人を含み9人の学生が参加しました。具体的には、次号でその様子をお知らせする予定です。内容は、牧場見学、講義、演習(牛追い?ベーコン作り?投薬?鼻紋取り)、懇親会などです。
また獣医学部と医学部の協力の下に、文部科学省の平成21年度「大学教育?学生支援推進事業【テーマA】大学教育推進プログラム」に応募しました。その結果、博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@が提出した「農医連携による動物生命科学教育の質の向上」が、支援プログラムに選定されました。このプログラムの目的は次の通りです。詳細は「情報:農と環境と医療 51号」をご覧ください。
博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@獣医学部動物資源科学科に「農医連携教育」を柱とした新しい教育課程を編成することによって、教育の質の向上を図り、次のような人材を養成することにある。このプログラムを推進することによって、高い倫理観および農と医の複眼的視点を身につけた、農を中心とした幅広い領域で活躍が期待されるジェネラリスト型の人材が養成でき、その上で農と医の境界領域における専門基礎能力を有したスペシャリスト型の人材をも養成できる。
21世紀に生じるであろう事象が予測される環境?食と生命に係る諸課題と、それらを解決するための道筋を提起し自らの考えを提示できる力、そしてそれを実践する学生の育成を目指す。これらの目標を達成するために、(1)生命倫理観、(2)創造的思考力、(3)課題探求能力、(4)コミュニケーションスキル?情報発信力、などの向上を目指した教育を展開する。
さて、新しい年を迎えて今年の具体的な計画をたてました。第7回博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@農医連携シンポジウムを開催します。さらに、その成果を冊子で出版します。詳細はこの情報53号の次の項「第7回博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@農医連携シンポジウムの開催-動物とヒトが共存する健康な社会-」をご覧ください。また、市民に向けた農医連携に関わる普及活動を実施します。これについては、現在相模原?町田大学地域コンソーシアムと新たな計画を企画中です。さらに、一般に向けた冊子の刊行にも努力したいと考えています。
21世紀もすでに10年目の歳に入りました。2008(平成20)年の初頭には、「生命?環境?情報?エネルギー」について述べました。そこで、われわれがこれから生きようとする21世紀の世界的規模での課題は、「生命」「環境」「情報」「エネルギー」だと指摘しました。いずれも現在の社会構造を根底から変革する威力を内包しているうえ、これらに対応しないで事を怠ると、まさに遅れて取り残された国にならざるを得ないと述べました。
これらに対して、一国の対応の遅延や混乱は世界中の国々に様々な悪い影響をもたらします。現在われわれが抱えている地球温暖化、インフルエンザおよび放射能汚染などがその良い例です。これらの問題は歳月が経るたびに深刻さを増しています。地球温暖化と鳥インフルエンザについては、環境を通して農と医が連携しなければならない重要な問題であることに言及しました。
すでに、地球温暖化に関しては「博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@農医連携学術叢書 第5回:地球温暖化-農と環境と健康に及ぼす影響評価とその対策?適応技術-」養賢堂(2009)、鳥インフルエンザに関しては「博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@農医連携学術叢書 第3号:鳥インフルエンザ-農と環境と医療の視点から-」養賢堂(2007)と題して刊行してきましたが、これからもこれらの課題の動向を注意深く監視していくつもりでいます。
本年は、農医連携に関わる国内外の情報の獲得にも努力します。アメリカ、オランダ、タイなどにおける農医連携の動向を探る計画でいます。また、国内の農医連携の動向についても情報のアンテナを張る計画でいます。
それでは、本年も昨年にまして「情報:農と環境と医療」をご愛読いただき、農医連携の学域の展開に対して関係各位のご支援ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。
第7回博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@農医連携シンポジウムの開催‐動物と人が共存する健康な社会‐
開催日時 :平成22年3月4日(木)13:00~18:00
開催場所 : 博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@白金キャンパス 薬学部コンベンションホール
主催 : 博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@
共催 : 平成21年度文部科学省大学教育改革支援プログラム採択課題実行委員会
開催趣旨
動物介在教育?療法学会の設立趣意の冒頭は、19世紀フランスの歴史家ジュール?ミシュレーの言葉、「生命は自らとは異なった生命と交流すればするほど、他の存在との連帯を増し、力と、幸福と、豊かさを加えて生きるようになる」ではじまる。人は人と人の関係において、はじめて豊かな人であるように、人は動物との関係においても精神的な豊かさを増して生きていける。
世界保健機関(WHO)は1999年に健康の定義の改正案、「健康とは、身体的?精神的?スピリチュアル?社会的に完全に良好な動的状態であり、単に病気あるいは虚弱でないことではない」を掲げている。この定義は改正されるに至っていないが、健康におけるスピリチュアルな概念は、社会が複雑多岐にわたる構造へと変動するなかで、ますます重要になる。
わが国においても、健康に関わるスピリチュアルな課題が動物介在教育?活動?療法などを活用して研究されはじめて久しい。その結果、これらの手法が人間の健康増進、医学における補完医療、高齢者や障害者の正常化、さらには子供の心身の健康的な発達に大きな役割を担っていることが認知され始めた。
とはいえ、わが国における動物介在教育?活動?療法などを進展させるためには、活用動物の習性や行動に基づく介在方法、公衆衛生上の評価、さらには倫理規定など周辺環境の整備がまだ十分に整っていない現状がある。
20世紀が技術知の勝利であるとすれば、21世紀は技術知を活用して得られた生態知、さらには技術知と生態知を連携した統合知を獲得する時代といえるかも知れない。さらに、自然科学を活用したスピリチュアルな幸福や豊かさを求める時代ともいえるであろう。
このような視点から、今回は「動物と人が共存する健康な社会」と題した農医連携に関わるシンポジウムを開催し、農医連携の科学の一助としたい。
開催場所 : 博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@白金キャンパス 薬学部コンベンションホール
主催 : 博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@
共催 : 平成21年度文部科学省大学教育改革支援プログラム採択課題実行委員会
開催趣旨
動物介在教育?療法学会の設立趣意の冒頭は、19世紀フランスの歴史家ジュール?ミシュレーの言葉、「生命は自らとは異なった生命と交流すればするほど、他の存在との連帯を増し、力と、幸福と、豊かさを加えて生きるようになる」ではじまる。人は人と人の関係において、はじめて豊かな人であるように、人は動物との関係においても精神的な豊かさを増して生きていける。
世界保健機関(WHO)は1999年に健康の定義の改正案、「健康とは、身体的?精神的?スピリチュアル?社会的に完全に良好な動的状態であり、単に病気あるいは虚弱でないことではない」を掲げている。この定義は改正されるに至っていないが、健康におけるスピリチュアルな概念は、社会が複雑多岐にわたる構造へと変動するなかで、ますます重要になる。
わが国においても、健康に関わるスピリチュアルな課題が動物介在教育?活動?療法などを活用して研究されはじめて久しい。その結果、これらの手法が人間の健康増進、医学における補完医療、高齢者や障害者の正常化、さらには子供の心身の健康的な発達に大きな役割を担っていることが認知され始めた。
とはいえ、わが国における動物介在教育?活動?療法などを進展させるためには、活用動物の習性や行動に基づく介在方法、公衆衛生上の評価、さらには倫理規定など周辺環境の整備がまだ十分に整っていない現状がある。
20世紀が技術知の勝利であるとすれば、21世紀は技術知を活用して得られた生態知、さらには技術知と生態知を連携した統合知を獲得する時代といえるかも知れない。さらに、自然科学を活用したスピリチュアルな幸福や豊かさを求める時代ともいえるであろう。
このような視点から、今回は「動物と人が共存する健康な社会」と題した農医連携に関わるシンポジウムを開催し、農医連携の科学の一助としたい。
講演プログラム
13:00~13:05 | 開催にあたって | 博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@学長 柴 忠義 |
13:05~13:20 | 人と動物とスピリチュアリティ | 博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@教授 陽 捷行 |
13:20~14:00 | 人と動物の望ましい関係 | 東京大学 林 良博 |
14:00~14:40 | 動物介在教育 | 日本獣医生命科学大学 的場 美芳子 |
14:40~15:20 | 子どもの学習における動物の役割を考える | 日本獣医生命科学大学 柿沼 美紀 |
15:30~16:10 | 動物福祉と動物介在教育?療法のこれから | 博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@ 樋口 誠一 |
16:10~16:50 | ヒポセラピー(馬介在療法)の効果 | 東京大学 局 博一 |
16:50~17:30 | 馬介在療法の科学的効果-内科医の視点から- | 関西福祉科学大学 倉恒 弘彦 |
17:30~18:00 | 総合討論 | 林 良博?陽 捷行 |
連絡先:
〒228-8555 神奈川県相模原市北里1丁目15番1号
博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@学長室 荒井文夫?井草慶子(noui@kitasato-u.ac.jp)
Tel:042-778-9765 Fax:042-778-9761
〒228-8555 神奈川県相模原市北里1丁目15番1号
博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@学長室 荒井文夫?井草慶子(noui@kitasato-u.ac.jp)
Tel:042-778-9765 Fax:042-778-9761
安全と安心:本の紹介 42~49
千葉県と兵庫県で女児を含む三家族10人が、中国製の冷凍餃子によってメタミドホスによる中毒症状を起こし、意識不明の重体に陥る事件が起きてはやくも2年が経過しようとしている。この間、関連する別の事件が中国で起きているにもかかわらず、わが国での真相はいまだ謎のままだ。ことは曖昧にされたままで歴史の幕は閉ざされるのだろうか。あれほど騒いだマスコミニュケーションも、今はまったく無関心を装っている。
伊達政宗がヨーロッパに派遣した支倉常長は、帰国後、正宗に語った。「西洋には科学というものがあります」「科学とは何か」「科学とは継承です」。科学とは、次世代のために幸福をもたらすための知識の継承なのだ。
科学とは、いつでも共通な真相を究明できるはずのものだ。日本でも中国でもイギリスでもそれを科学という。しかし今回の事件では、中国と日本の科学の結果が大きく異なった。安全とは、科学で証明できるものと思われているが、この事件はそういかなかった。
主義や思想や宗教は、万国共通ではない。科学は万国共通だ。それを科学という。中国の科学と日本の科学は異なるのか?異なるとすれば、どちらかがあるいはどちらも科学とはいえまい。となれば、今回の餃子中毒事件の真相は主義か宗教か、はたまたエイリアンのような生物のなせる仕業か。
農と環境と健康を思う者にとっては、忘れもしない。中国食品の汚染問題は3年も前から世界のメディアを賑わした。正義の化身と思っているマスコミニュケーションも、すでに忘れたかのようだが、パナマの毒シロップ事件がことの始まりだ。その後わが国のメディアも、中国製歯磨き、冷凍ウナギ、鉛入り土鍋、鉛玩具など、その常識外れの危険性を盛んに報道した。その中でも「段ボール肉まん」は、「偽ディズニーランド」「偽キティちゃん」「偽???」と肩を並べるほどの食品がらみの失笑噴飯ものだった。何を信じていいのか皆目分からない。
中国国内にいたっては、「白い春雨」「白馬小麦粉」「有毒氷砂糖」「人造卵?葡萄?クラゲ?牛肉?鶏肉」「五味醤油」「七色七味水晶もち」「果実味餅」「苛性ソーダ入りパン」「月餅」「元宵」などの食品が、魑魅魍魎よろしく蠢いているという。
輸入野菜の残留農薬問題、毒入り餃子事件、メラミン混入粉ミルク事件など、中国からの輸入食品にからむ事件が後を絶たない。しかも日中間の心理的なあつれきや政治的思惑が交錯し、問題や事件の真相と原因の解明が複雑化している。われわれの健康も政治問題の犠牲になるのか。
食品の流通は広域化し、国際化の一途を辿っている。そのため、異常プリオン、O157、鳥インフルエンザなど新たな危害要因が世界を席巻する。さらに、遺伝子組換えなどの新たな技術、またそれに伴う分析技術が向上した。このように食生活を取り巻く状況は、良しにつけ悪しきにつけ安全と安心で大きく揺れている。食の安全と安心を明確にすべく、平成15年7月、わが国の内閣府に「食品の安全性を科学に基づき客観的かつ中立公正に評価する機関」として食品安全委員会が設置された。ここでは、主義や思想や宗教に基づく安全と安心などとは規定されていない。
食品安全委員会は、海外におけるリスク評価結果や評価手法に関する情報の迅速な入手や国際的なリスク評価作業への協力が不可欠になっているところから、国際機関?外国機関との連携強化に取り組む必要があろう。
この委員会では、牛海綿状脳症(BSE)、カンピロバクター、薬剤耐性菌などのリスク評価が行われている。さらに、758物質の農薬や動物性医薬品などの評価も順次実施されている。またこの委員会は、意見交換会、リスク評価の結果説明会、インターネットでの情報公開などあらゆる機会と伝達手段を用いて、リスクコミュニケーションの推進に務めている。
科学技術は「絶対安全」を約束するものではない。しかし、さまざまな食の安全にかかわる事故を諦めることなく、事故の来る所以を分析し、原因が何かを探索する。そして、一歩でも前進した安全のための対策を練る。着実だが時間がかかるのだ。
食の安全には、ウイルスにしろ微生物にしろ多くの場合「生き物」が関連している。人間はこの「生き物」たちの多様性によって生かされているということ、人間の力がいかに卑小であるかということを再認識しながら、食の安全に立ち向かわねばならない。思想でも主義でもない。生態系の複雑なハーモニーを確認する科学のもとで。
安心は心理的な側面の強い概念だ。不安と安心は数値の世界に乗りきれない。これは脳の問題だ。脳には最初から不安という要素があって、ある現象をその脳の不安要素に常に関係づけようとしているのかも知れない。そのことを考えると、筆者には安心について書くだけの能力がない。そこで、安全、安心、リスクの科学に関してこれまで「情報:農と環境と医療」(博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@)や「情報:農業と環境」(農業環境技術研究所)でも紹介した書籍を脈絡なく、さらに改変して以下に紹介する。なお、上で述べた内容の一部は、筆者が書いた内容(食の安全?安心と「生き物」、ビオストーリー、11, 108-109 (2009))と一部重複していることをお断りしておく。
1) 本の紹介 42:リスク学事典、日本リスク研究学会編、TBSブリタニカ(2000)
環境とは人間と自然の間に成立するもので、人間の見方や価値観が色濃く刻み込まれたものだ。だから、人間の文化を離れた環境というものは存在しない。しかしこれまでの環境に関わる書籍は、自然科学系や社会科学系の各専門分野の領域においてそれぞれ個別に書かれたものが多く、人間の見方や価値観など文化をも取り入れ専門分野を超えた総合科学として論じたものは少なかった。
この本はこの問題を克服している。リスクの研究者ばかりでなく、広く環境に関わる研究者?施策者?学生?市民にも解りやすい。われわれの身近な生活の問題として環境問題を実践するにあたって、良い指針となる。なぜならこの本の目指すところが、自然環境および社会環境と人間活動との関わりから生じるリスク事象について解析?評価し、リスク情報の伝達?意志決定?リスクの対処方法ならびに施策決定方法を紹介しているからだ。
この本の理念は、次のようにまとめられている。「市民社会の進展に合わせて、リスクを適切に認知?解説?評価し、個人と社会が適切な対応策をとり、リスクと賢くつきあいながら、生活の質を高めつつ、持続的に発展する経済社会を構築してゆくことが重要である」。
この本のタイトルは「リスク学事典」となっているが、物や事がらの内容を画一的に説明した従来の「事典」とは異なり、体系的でわかりやすい。以下に示すように、第1章の概説では、リスクの概念と方法として全体の内容をまとめている。第2章では、環境リスクの概念が従来の「(化学物質による)環境保全上の支障を生じさせる恐れ」から、「ある技術の採用とそれに付随する人の行為や活動によって、人の生命の安全や健康、資産並びにその環境に望ましくない結果をもたらす可能性」へと広義な定義になっている。例えば地球温暖化?オゾン層破壊などは、地球規模のリスクであると同時に次世代にまで影響を与えるから、グローバル?次世代リスクと呼ばれ、様々なリスクが登場する。これら各種のリスクの内容と対応について紹介している。
第4章では、遺伝子組み換え技術やクローン技術など生命科学が生みだす技術をどうみるのか、高度技術社会において「どれくらい安全なら十分なのか」など技術リスクの受容水準や、これらの技術がもたらす倫理問題などが紹介される。
第6章ではリスク評価手法として、人への健康影響評価、環境中の生物へのリスク評価手法、および今後の課題が紹介される。また、システムズアプローチによるリスク評価の考えとして、生産?消費?廃棄の過程で物質や水?呼気?食品を介したシステムにおける物質系リスクの構造把握、食物連鎖を介し化学物質などによる生物多様性の減少程度の推定などの評価法が紹介される。
第7章では、リスクとリスク認知の相違及びリスク認知の心理学的測定法が紹介される。また、リスクとなる対象物のもつ肯定的な側面だけではなく、否定的な側面についての情報、すなわちリスクはリスクとして公正に伝え、行政?企業ばかりでなく市民も含めた関係者が共考しうるコミュニケーション、「リスクコミュニケーション」の理念とその手法が紹介される。
第1章 リスク学の領域と方法
[概説] リスク学の領域と方法-リスクと賢くつきあう社会の知恵-
第2章 健康被害と環境リスクへの対応
[概説] 健康被害、健康リスク、環境リスク
[概説] 環境リスクの概念の変化と次世代?グローバルリスクの登場
第3章 自然災害と都市災害への対応
[概説] 自然災害のリスクマネジメント
[概説] まれな災害に備えつつ、暮らしの豊かさを求める-まちづくりとのかかわり-
第4章 高度技術リスクと技術文明への対応
[概説] 技術リスクと高度技術社会への対応
第5章 社会経済的リスクとリスク対応社会
[概説] 社会経済的リスクの分析とマネジメント
第6章 リスク評価の科学と方法
[概説] リスク評価の科学的手法
[概説] システムズアプローチによるリスクの構造的把握
第7章 リスクの認知とコミュニケーション
[概説] リスク認知とリスクコミュニケーション
第8章 リスクマネジメントとリスク政策
[概説] リスク対応の戦略、政策、制度
2) 本の紹介 43:増補改訂版 リスク学事典、日本リスク研究学会 編、阪急コミュニケーションズ(2006)
高度な技術の開発によって、人間活動はより豊かになった。一方、紙の表には必ず裏があるように、技術の開発や産業の発展に伴って新たなリスクも発生している。自然災害による生命や財産の安全に対するリスクの回避策を構築することも重要な課題だ。
近年、地球的規模での環境問題も顕在化し、社会生活を取り巻く多種多様なリスクについて科学的に認知、解析、評価、管理することが求められている。しかし、リスク学研究の歴史はきわめて浅く、学問的に確立したものではなかった。そのため、上述したように日本リスク研究学会は、リスク学の専門用語を学問的、体系的に整理した分野別項目事典として「リスク学事典」を2000年に出版した。
初版の「リスク学事典」では、リスクを「人間の生命や経済活動にとって、望ましくない事象の発生の不確実さの程度およびその結果の大きさの程度」と定義し、各種リスクの発生や拡大状況とそのメカニズム、対策と問題点などを分かりやすく説明している。環境を通した農と健康の研究を実施するに当たって、本書はリスクという新たな概念を理解し研究の方向性を探るうえで多くの有益な知見を与えてくれる。
BSEや食品偽装の問題、高齢化による社会保障問題、地震や水害などの自然災害、犯罪の増加など、国際的、国内的にも新たなリスクへの関心が高まっている。安全?安心を求める国民の声も大きく、コミュニケーションの構築も必須になっている。このような状況において、リスク学への期待が一層大きくなっているとの判断から、増補改訂版が刊行された。
本書では、初版全体が見直されるとともに、「第9章リスク対応の新潮流」が新たに追加された。この章では、2003年以降、国内で問題になっているBSE、高病原性鳥インフルエンザを対象に、食品安全におけるリスクアナリシスのあり方、化学物質のリスク評価と管理、遺伝子組み換え体やIT技術など新技術によるリスクなど、それぞれの問題点を整理しリスク軽減に向けた方法を提示している。とくに新たに発生するリスクの多くは、国際的基準や連携のもとに管理する必要性が高まっており、国際的な視野が求められる。また、国内的にも、国民の相互理解を図るリスクコミュニケーションが位置づけられ、行政的にも多くの省庁の連携なしにリスク管理はできないことが特筆されている。
さらに、社会が成熟し価値観や倫理観が変わってきた段階でのリスクマネジメントや、安全?安心とゼロリスク認知の関係についても解説され、「社会の構成員が精神的現実として安心を獲得することと、専門家が物理的現実をもとにおこなうリスクアセスメントとの調和が求められている」と結論している。本書は学問的にも高度で、最近発生しているリスクを正確に捉え、その解決方策を導く上で的確な指針を提示しており、「リスク研究」の参考書として大いに活用されるものだろう。
3) 本の紹介 44:化学物質と生態毒性:若林明子著、産業環境管理協会、丸善(2000)
化学物質への対策は、ヒトへの健康影響だけを考えるのでは片手落ちだ。生態系や農業生産への影響を含め総合的かつ体系的な対策が必要だ。食物連鎖に見られるように、ヒトは生態系の一部であるにすぎない。わが国における化学物質の環境基準の制定などには、ヒトへの健康影響は配慮されるが、生態系や農業生産を守り育てるという視点に欠けている。
この本は、有機スズ、ダイオキシン、界面活性剤など環境汚染化学物質による生態系への影響評価および毒性評価を生態毒性学の視点から集約したものだ。本書の大部分は、「環境管理」誌にシリーズで連載された報文を基に書かれている。この種の本は、普通、多くの著者による分担執筆の形がとられる。しかし本書は、一人ですべての項目を執筆しており、内容に一貫性がある。
生態系への毒性試験の詳細な解説、定量的構造活生相関(QSAR)、化学物質の環境動態で重要な役割を演じている生分解性や内分泌攪乱性の事項まで取りあげている点も特徴の一つだ。付録として、経済協力開発機構(OECD)と環境庁のガイドラインが記載されている。また付表として、各国の水質基準、主要化学物質一覧、主要魚名が記載されており、大変便利だ。なお、本書の目次は次の通り。
1.国内外における生態系保護対策の動向/2.水生生物を用いた毒性試験/3.試験生物種や発育段階と毒性/4.試験時の水質変化と毒性/5.慢性毒性値の推定方法/6.毒性発現の作用様式/7.構造活性相関/8.化学物質の水生生物への複合毒性/9.水生生物への蓄積と濃縮/10.生分解性と生体内変化/11.野生生物で生じているホルモンの大攪乱/12.ダイオキシン類のエコトキシコロジー/13.界面活性剤のエコトキシコロジー/14.GESAMPの有害性評価手順の改定/15.米国における水質管理への適用
4) 本の紹介 45:化学物質は警告する、-「悪魔の水」から環境ホルモンまで-、常石敬一著、洋泉社(2000)
「はじめに」に著者は書く。すべて「先送り」にしてきたと。化学物質がこの一世紀にわたり、人間に多くの豊かさを与えてきた反面、少しずつ不利益という形で挑戦してきた問題を見極め、人間がそれをどうはね返せるかを、一人ひとりが考えること、これが本書の目的だと。「はじめに」で著者は続ける。「先送りされてきた問題、化学物質からの人間へのチャレンジが、今や先送りできないことを示しているのが環境ホルモン(内分泌攪乱化学物質)だ。今、化学(科学)の世界はあたかも飽和状態のように見える。それだけ若者にとって魅力の少ない分野となっているのだろう。しかし化学物質からのチャレンジということは、自然からのそれでもある。それにまともに応えなければならないということは、本書の最後にも述べるが、新しい科学を建設することにつながると私は考えている。今や、化学(科学)は多くのチャレンジ精神に富む若者にとって、挑戦し甲斐のある魅力ある分野だと考えている」。
現在、化学物質は毎日2000種が登場し、12万種が流通しているという。しかしその結果、われわれの身の回りには人間が意図的に、またときによっては非意図的に作りだした毒物であふれている現実がある。毒物の種類は二通りある。一つは食品添加物などで、毒と知っていて毎日摂るもの。もうひとつは和歌山の「亜ヒ酸入りカレー事件」のように、知らないで摂って被害を受けるものだ。いずれにしても、われわれの周りにはわれわれが作った人工物質に満ち満ちている。
「あとがき」で著者はこう締めくくる。「わたしは内分泌攪乱化学物質は、人類の将来を破壊する化学的な時限爆弾ではないか、と危惧している。これらは、これまでの多くの人工的に作り出され、利用されてきた化学物質とは違い、問題が出てから対応するのでは手遅れとなる。"沈黙の春"の"明日のための寓話"が現実のものになると考えている。そうさせないために、化学物質からのメッセージを受け止め、未来を確保するための戦略を作り出さなければならない。これは未来を信ずる一人ひとりに課せられた課題だ」と。以下に目次を紹介する。
序 章 毒にも薬にもなる化学物質
[1] 人間は毒物とどのように付き合ってきたのか?
[2] 化学物質が凶器=化学兵器に変わる瞬間
第1章 ヒ素 猛毒中の猛毒物質
[1] 猛毒のメカニズムとその歴史的足跡
[2] 明と暗の両面を持つ化学物質
第2章 窒素:火薬?肥料の原料として出発
第3章 塩素:もっとも身近な化学物質
[1] 殺菌作用と漂白作用の発見
[2] 有機塩素化合物が環境ホルモンになるまで
第4章 青酸:「生命の起源」にもかかわる猛毒物質
第5章 リン:三大「神経ガス」の原料
第6章 水銀:回収?再利用が行われている危険物質
第7章 PCB?ダイオキシン?フロン:地球と人類に敵対する最悪の化学物質
第8章 環境ホルモン:二十一世紀の科学革命と内分泌攪乱化学物質との闘い
5) 本の紹介 46:社会的共通資本、宇沢弘文著、岩波新書696(2000)
著者は、日本の代表的な近代経済学者(マクロ経済学)で東京大学名誉教授。1983年文化功労者、1989年日本学士院会員、1995年米国科学アカデミー客員会員、1997年文化勲章、2009年にはブルー?プラネット賞を受賞した国際的にも著名な経済学と環境科学の泰斗である。
この項を書いている筆者は、10年以上も前にNHK教育テレビジョンで氏と対談する光栄に浴したが、声の優しいきわめて温厚な紳士だ。ブルー?プラネット賞受賞のときの台詞が忘れられない。「経済学はお金のことを語る学問ではない。人びとを幸福にするための学問である」。
さて、本の紹介に入る。大気汚染、水質汚濁といった産業公害問題は、その大方を科学技術によって解決してきたし、今後もされるだろう。しかし、地球環境問題や食料問題を解決するには科学技術のみでは解決が不可能で、社会システムの改変が不可欠となってくる。このため、技術系の研究者もこれらの問題を解決するためは、社会?経済的アプローチを理解することが必要だ。この本は経済学者が技術系の研究者にも分かりやすく、簡潔に書かれた環境問題を思索したものだ。
著者は序章で次にように述べる。「20世紀の世紀末を象徴とする問題は、地球温暖化、生物多様性の喪失などに象徴される地球環境問題である。とくに、地球温暖化は、人類がこれまで直面してきたもっとも深刻な問題であって、21世紀を通じて一層、拡大し、その影響も広範囲にわたり、子や孫たちの世代に取り返しのつかない被害を与えることは確実だといってよい。地球温暖化の問題は、大気という人類にとって共通の財産を、産業革命以来、とくに20世紀を通じて、粗末にして、破壊しつづけたことによって起こったものである。人間が人間として生きて行くためにもっとも大事な存在である大気をはじめとする自然環境という大切な社会的共通資本を、資本主義の国々では、価値のない自由財として、自由に利用し、広範にわたって汚染しつづけてきた。また、社会主義の国々でも、独裁的な政治権力のもとで、徹底的に汚染し、破壊しつづけてきたのである」。そして「21世紀の世紀末的な状況を超えて、新しい世紀の可能性を探ろうとするとき、社会的共通資本の問題が、もっとも大きな課題として、私たちの前に提示されている」と、本書タイトルである「社会的共通資本」の重要性を説明している。
第1章で著者は次のように述べる。「20世紀の資本主義と社会主義の二つの経済体制の対立、相克が世界の平和をおびやかし、数多くの悲惨な結果を生み出し、20世紀末の社会主義世界が全面崩壊する一方、世界の資本主義の内部矛盾が'90年代を通じて、一層拡大化され深刻な様相を呈しつつある。この混乱と混迷を越えて、新しい21世紀への展望を開こうとするとき、もっとも中心的な役割を果たすのが制度主義の考えである。制度主義は資本主義と社会主義を越えて、すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限に享受できるような経済体制を実現しようとするものである。制度主義の経済制度を特徴づけるのは社会的共通資本と、さまざまな社会的共通資本を管理する社会的組織のあり方である」。
また、「制度主義のもとでは生産、流通、消費の過程で制約的になるような希少資源は、社会的共通資本と私的資本との二つに分類される。社会的資本は私的資本と異なって、個々の経済的主体によって私的な観点から管理、運営されるものではなく、社会全体にとって共通の資産として社会的に管理、運営されるものを一般的に総称する」。
そして、第2章から第6章までは日本の場合について、著者は「社会共通資本の重要な構成要素である自然環境、都市、農村、教育、医療、金融などという中心的な社会的共通資本の分野について、個別的事例を中心としてそれぞれの果たしてきた社会的、経済的役割を考えるとともに、社会的共通資本の目的がうまく達成でき、持続的な経済発展が可能になるためにはどのような制度的前提条件が満たされなければならないか」を思索している。
第2章の農業と農村で著者は「資本主義的な市場経済制度のもとにおける農業とは、その市場価格体系で、各農家が受けとる純所得が決まり、その所得の制度条件のもとで各農家は家族生活、子弟の教育のための支出をはじめ、種子、肥料、農薬など、農の営みに必要な生産要素を購入し、さらに新しい農地の購入、技術開発、栽培方法の改良のためにさまざまな活動と投資を行い、原則として、収支が均衡すると考える」としている。しかし、我が国の現状では、このような農業が成立することは極めて希であるから、「農業という概念規定より、農の営みという考えにもとづいて論議を進めた方がよいのではなかろうか」、「農の営みは人類の歴史とともに古く、自然の論理にしたがって、自然と共存しながら、私たちが生存して行くために欠くことのできない食糧を生産し、衣料類、住居をつくるために必要な原材料を供給する機能を果たしてきた。その生産過程で自然と共存しながら、それに人工的な改変を加え生産活動を行うが、工業部門とは異なって、大規模な自然破壊を行うことなく、自然に生存する生物と直接関わりを通じてこのような生産がなされるという、農業の基本的特徴を見いだすことができる。この農業のもつ基本的性格は工業部門での生産過程ときわめて対照的なものであって、農業にかかわる諸問題を考察するときに無視することができない」と、農の営みとその生産過程の特徴を説明している。
さらに、「農業の問題を考察するときにまず必要なことは、農業の営みがおこなわれる場、そこに働き、生きる人々を総体としてとらえなければならない。いわゆる農村という概念的枠組みのなかで考えをすすめることが必要である」、「一つの国がたんに経済的な観点だけでなく、社会経済的観点からも、安定的な発展を遂げるためには、農村の規模がある程度、安定的水準に維持されることが不可欠である」、これまで「農村の果たす、経済的、社会的文化的人間的な役割の重要性にふれてきた。資本主義的経済体制のもとでは、工業と農村の間の生産性格差は大きく、市場的な効率性を基準として資源配分がされるとすれば、農村の規模は年々縮小せざるをえないのが現状である。さらに国際的観点からの市場原理が適用されることになるとすれば、日本経済は工業部門に特化して、農業の比率は極端に低く、農村は事実上、消滅するという結果になりかねない」、このため「まず、要請されることは、農村の規模をある一定の、社会的観点から望ましい水準に安定的に維持することである。」、そして「農村を一つの社会的共通資本と考えて、人間的魅力のある、すぐれた文化、美しい自然を維持しながら、持続的な発展をつづけることができるコモンズを形成しようということである。しかし、このような環境的条件を整備するだけでは工業と農業との格差は埋めることはできない。なんらかのかたちでの所得補助が与えられなければ、この格差を解消することは困難である」と、述べている。
しかし著者は、「一戸、一戸の農家経済的、経営的単位として考えないで、コモンズとしての農村を経済的主体として考えようというとき、日本経済の存立の前提条件である経済的分権性と政治的民主主義に根元的に矛盾するのではないかという疑問」を提起し、この疑問を解決するために、生物学者のガーレット?ハディーンが1968年「サイエンス」に寄稿した論文「共有地の悲劇」を引用し、コモンズの理論について詳しく説明している。この論文が出されると、文化人類学者、エコロジスト、経済学者たちの間で大きな論争が展開され、持続的可能な経済発展というすぐれて現代的課題を考察するに中心的役割を果たしたが、この論文から著者はコモンズについて次のように解説している。
「コモンズとは、もともと、ある特定の人々の集団あるいはコミュニティにとって、その生活上あるいは生存のために重要な役割を果たす希少資源そのものか、あるいはそのような希少資源を生み出すような特定の場所を限定して、利用にかんして特定の規約を決めるような制度を指す。伝統的なコモンズは灌漑用水、漁場、森林、牧草地、焼き畑農耕地、野生地、河川、海浜など多様である。さらに地球環境、とくに大気、海洋そのものもコモンズにあげられる」、そして、著者は「コモンズはいずれも、さきに説明した社会的共通資本の概念に含まれ、その理論がそのまま適用されるが、ここでは各種のコモンズについてその組織、管理のあり方について注目したい。とくに、コモンズの管理が必ずしも国家権力を通じでおこなわれるのではなく、コモンズを構成する人々の集団ないし、コミュニティからフィデュシアリー(fiduciary:信託)のかたちで、コモンズの管理が信託されるのがコモンズを特徴づける重要な性格である」と、述べている。
第1章では、地球温暖化と生物種の多様性の喪失などという地球環境に関わる問題について、人類全体にとっての社会的共通資本の管理?維持という観点から考察している。著者は自然環境を経済理論から定義し、「自然環境とは森林、草原、河川、湖沼、海洋、水、地下水、土壌、さらに大気などを指し、森林とは、森林に生息する生物群集、伏流水として流れる水も含めた総体である」としている。「自然環境は経済理論でいうストックの次元をもつ概念であり、経済的役割からみると、自然資本と表現できる。自然資本のストックの時間的経過や変化は、生物学的、エコロジカル、気象的な諸条件によって影響され、きわめて複雑に変化する。このため、工業部門における「資本」の減耗あるいは資本とは本質的に異なる」、「また、自然環境を構成するさまざまな要素は相互作用など複雑な関係が存在し、自然環境の果たす経済的機能に大きな影響を与える。このため、自然環境の果たす経済的役割は工場生産のプロセスにみられる決定論的、機械論的な関係を想定できず、本質的に統計的、確率理論的な意味を持つ」と、述べている。
また、著者は1994年ナイロビで開催されたIPCCの「気象変化に関する倫理的、社会的考察」の協議会で発表されたアン?ハイデンライヒとデヴィド?ホールマンの論文「売りに出されたコモンズ-聖なる存在から市場的財へ」を引用している。この論文は自然環境が文化、宗教とどのようなかたちでかかわっているかを考察している。その中で、「アメリカ?インディオが信じていた宗教は、自然資源を管理し、規制するためのメカニズムであり、その持続的利用を実現するための文化的伝統であった。これに対して、キリスト教の教義が自然に対する人間の優位に関する理論的根拠を提供し、人間の意志による自然環境の破壊、搾取に対してサンクションを与えた。同時に自然の摂理を巧みに利用するための科学の発展も、また、キリスト教の教義によって容認され、推進されていった。」という内容、すなわち、環境の問題を考えるとき、宗教が中心的役割を果たしていることに著者は注目している。
さらに、著者は環境と経済の関係について、この30年ほどの間に本質的に大きな変化が起こりつつあることを、第1回環境会議と第3回環境会議から考察している。著者は「第1回環境会議の主題が公害問題であったのに対して、第3回環境会議では地球規模の環境汚染、破壊が主題であった」、なかでも「地球温暖化の問題の特徴について述べ、地球温暖化問題は公害問題に比較して、その深刻性、緊急性は遙かに小さく、その直接的な社会、政治への影響は軽微である。しかし、地球全体の気候的諸条件に直接関わりをもち、また、遠い将来の世代にわたって大きな影響を与えるという点から見て決して無視することのできない深刻な問題を提起している」と、述べている。また、この問題に対する経済的対応策として第3回環境会議において持続可能な経済発展の概念が提案され、定常状態と経済発展について述べている。さらに、著者は地球温暖化を防いで安定した自然環境を長期にわたって守っていくための方策として、社会共通資本の理論から炭素税、二酸化炭素税、さらには環境税の考えを提案し、スウェーデンの炭素税制度を紹介している。目次は以下の通り。
はしがき?序章?ゆたかな社会とは/第1章 社会的共通資本の考え方/第2章 農業と農村/第3章 都市を考える/第4章 学校教育を考える/第5章 社会的共通資本としての医療/第6章 社会共通資本としての金融制度/第7章 地球環境
6) 本の紹介 47:安全と安心の科学:村上陽一郎著、集英社新書(2005)
これは、人間のもつ「リスクに立ち向かう」営みについて書かれた本だ。科学?技術は「絶対安全」を約束するものではない。しかし、さまざまな事故を諦めることなく、事故の来る所以を分析し、何かを探し出す。そして、一歩でも前進した事故対策を練る。時には人間の力がいかに卑小であるかを再認識し、自然の力の雄大さに再び頭を垂れる。そのような思いをもちながらこの本は書かれている。以下に各章の内容を紹介する。
序論 「安全学」の試み:ここ10年の間に、安全と安心は社会の合い言葉のようになった。「科学技術基本計画」でも、「安全で安心できる国」なるスローガンが掲げられている。その背景には、自然と人間との接点で起こる自然災害がある。続いて、戦争や凶悪犯罪など人間が人間の安全を脅かしている現実がある。また、人間が作った人工物に脅かされている人間がいる。それは、自動車であり原子力であり食料だ。
一方では、社会構造の変化からくる外化(著者の定義:現代社会は、過去においては個人の手に委ねられてきたさまざまな機能や能力を、個人から取り上げ、それを社会の仕組みのなかで達成させようとする傾向がある。少しぎこちない言葉だが、それを「外化」という言葉で呼ぶことにしましょう)や年金への不安が顔を覗かせる。また、文明化の進展によって変化する疾病の構造への不安がある。社会を構成している成員がその社会に違和感を持ち、自分が社会のなかであるべき場所を見出せない不安が充満している。
社会によってさまざまな不安が存在する。文明の発達した社会が、その成員にとって決して好ましい安全と安心がある環境ではないのだ。加えて、仮に「安全」でも「安心」は得られないのだ。危険が除かれ安全になったからといって、必ずしも安心は得られない。
「不足」や「満足」は心理的な側面の強い概念であるけれども、ある程度数値化が可能である。しかし、「不安」と「安心」はそうした数値の世界に乗り切らない。ひょっとしたら、脳には最初から不安という要素があって、ある現象をその脳の不安要素につねに関係づけようとしているのかもしれない。いずれにしても、この本の提唱する「安全学」とは、「安全-危険」、「安心-不安」、「満足-不足」という軸を総合的に眺めて、問題の解決を図ろうとするものと理解すればよいだろう。
第1章 交通と安全-事故の「責任追求」と「原因究明」:著者は序論で、戦争や原子力や震災に比べて、自動車事故について「年間八千人、つまり阪神?淡路大震災での死者数を上回り、毎日確実に20人以上の死者を生み続けている交通の現場に対する社会の関心の低さは異常でもあります」と指摘している。確かにこの異常さは、どこからくるものか、不思議な現象だ。「交通と安全」と題するこの章では、上述した自動車事故についての「責任追及」と「原因究明」の違いと、「原因究明」の必要性について解説する。このことを理解させるために、航空機のフール?プルーフ(注:不注意があってもなお、致命的な結果におちいらないようにする技術的工夫)やナチュラル?マッピング(注:操作パネルなどの設計に当たって、「自然」であることを一義に立てることを意味する)などを例に出す。
交通事故が起こる。事故の調査が行われる。事故の調査が「責任追及」の観点から行われる。このことは確かに必要だが、事故の調査がそのような観点だけから行われることが問題だと指摘する。すなわち、事故原因の究明が次の事故の防止のためになされなければならないとする。これが「原因の究明」だ。安全へ導くインセンティブの欠如を指摘しているのだ。
過去に学ばないものは、同じ過ちを繰り返す。このことこそ、どのような現場であろうと安全の問題に取り組むときの黄金律(この項の筆者の注:golden rule、新約聖書のマタイ福音書にある山上の説教の一説「すべて人にせられんと思うことは人にもまたそのごとくせよ」)なのだ。このことは、すべての事象に当てはまる。歴史を見る目であり、科学をする意識であり、生命を継続させる目だ。歴史に学ぶとは、どんな分野においても先人が語ってきた忘れてはならない定説なのだ。
第2章 医療と安全-インシデント情報の開示と事故情報:失敗?事故?アクシデント?インシデントから学ぶことが強調される。事故が起きた。報告制度がある。なぜ報告が必要か。起こった不都合な出来事を共有する。なぜ共有するか。今後の改善を目指すために重要だから。医療現場に多い「患者取り違え」事件で、このことを説明する。それでも、人間は間違える。「人間は間違える」ことを、To Err is Humanで解説し、フール?プルーフ(愚行、ミス、エラーに対して備えができている)、フェイル?セーフ(失敗があっても安全が保てる)を解説しながら安全を保つことの必要性が語られる。さらに安全については、「医療の品質管理」の導入が必要であると強調される。医療はそもそもが、危険と隣り合わせにある。したがって、危機を承知の上で行われる行為でもある。そこで問題が起こっても、それが問題であるかどうかさえ判らないままに、ミスや誤りが明確化されない傾向が強いから、医療の品質管理は責任の上からも重要であると説く。
続いて医療の安全を語るために、戦後世間の耳目を集めた「薬害事件」が、その背景とともに紹介される。睡眠薬サリドマイドを妊娠初期に服用した妊婦から生まれた子供に、先天性の奇形が発生したサリドマイド事件。キノホルムが絡む消毒剤による薬害事件で、亜急性?背髄?視神経?末梢神経障害(subacute myelo-optic-neuropathy)の頭文字から名付けられたスモン。マラリアの治療薬を慢性の炎症や肝炎などに拡大し、視力障害をもたらしたクロロキン事件。ある種の抗癌剤と併用すると、死亡も含む重篤な障害が発生するヘルペス治療薬として開発されたソリブジン。血友病の治療のために使われてきた非加熱血液製剤に含まれていたHIVによる感染症など。加えて、医療スタッフの安全問題が語られる。医療の責任に対する心理的な重圧、治療中の事故による感染、院内感染など医療者の安全も忘れてはならない問題であると、話は続く。
第3章 原子力と安全-過ちに学ぶ「安全文化」の確立:この章では、原子力事故を通して「過ちに学ぶ」ことを力説する。そのためには、「技術と知識の継承」「暗黙知の継承」「初心忘るべからず」「安全文化」が重要であると指摘する。安全文化とは、国際原子力機関が、相次ぐ事故を教訓として国際的に原子力関係者に向けた啓発活動として提唱してきた概念である。
安全文化は二つの要素からなる。一つは組織内の必要な枠組みと管理機構の責任の取り方である。二つ目は、あらゆる階層の従業員が、その枠組みに対しての責任の取り方および理解の仕方において、どのような姿勢を示すか、という点だ。この内容は単なる精神主義ではなく、広く一般に活用できるので以下にその一部を記載しておく。
個々の従業員には、
管理的業務者には、
さらにここでは、「科学者共同体」と専門知識の関係が解説される。それを受けて、どのようにして専門知識が外部社会に利用されるようになったかの説明がある。これらの歴史的な経過を経て、はじめて安全が獲得されていくのだ。つまり科学の本来の姿は、知識の生産?蓄積?流通?利用?評価などが完全に科学者共同体の内部に限定された形で行われる。すなわち、自己完結的な活動なのだ。しかし、原子力の場合、科学者共同体の外の組織である行政や軍部に利用の道が開かれたのだ。このときから科学は、科学者の好奇心を満足させるための自己完結的な知的活動であると同時に、その成果を外部社会が、とくに国家が、自分たちの目的を達成するために利用できる宝庫にしたのだ。
また原子力産業の特異性が、原子力発電所事故のカテゴリー分類、スリーマイル島原子力発電所事故、チェルノブイリ原子力発電所事故、東海村JCO臨界事故などを例に解説される。
第4章 安全の設計-リスクの認知とリスクマネジメント:はたして「リスク」の訳語が「危険」で、「マネジメント」の訳語が「管理」なのかという疑問から始まり、「リスク」という語の語源の定説が紹介される。「リスク」には「人間の意志」または「人間の行為」が絡んでいる。行為には「利益」が伴い、その「利益」を追求しようとする意志がある。リスクの中で問題になる「危険」は、「可能性として」の「危険」であり、しかも何らかの意味で人間が「利を求めることの代償」としての「危険」ということになる。
つづいて、「リスク認知の主観性」が語られる。リスクは不安や恐れと表裏をなす概念であるから、「心理的」な意味あいをもつ。だからある喫煙者は、喫煙という行為が客観的にリスクがきわめて大きいにもかかわらず、何倍もリスクの低い組換え体作物の方にリスクに関する情熱を傾けたりする。
リスクの認知は、慣れていないもの、未知のものへの恐れなどに過大に現れる。また、自己から時間的、空間的な距離が遠くなるにつれて、認知度は低下する。結局、リスクの認知は、主観的あるいは心理的な要素を多分に含むもので、個人や社会の価値観と密接に繋がっている。このように主観的な色合いの濃いリスクに対しては、ある程度の客観性が与えられなければならない。これがリスクの定量化だ。このようなリスクの背景が語られ、リスクの認知、定量化、評価が紹介される。当然のことであるが、認知され、定量化された事故についてのリスクは、評価に基づいて起こらないように管理される必要が生じる。
第5章 安全の戦略-ヒューマン?エラーに対する安全戦略:前章のリスクの認知、定量化、評価、管理上の問題点にはヒューマン?ファクターは除外して算定されていた。この章は、ヒューマン?エラーが起こったとき、どのような安全への戦略が可能か、また、システムの安全を目指すときに、それに関わる人間の意識として、何が必要かという点に焦点が絞られる。
そのような視点から次の項目が設定、解説される。安全戦略としての「フール?プルーフ」と「フェイル?セーフ」/「安全」は達成された瞬間から崩壊が始まる/ホイッスル?ブロウ(注:危険を察知して、警告を発する)の重要性/ヒューマン?エラーが起こるときの条件/アフォーダンス(注:生物が自分以外の何ものかと出会ったとき、どのように感じるか、という場面で生じる特性)に合っていること/回復可能性/複合管理システム/簡潔?明瞭な表示法/コミュニケーションの円滑化/褒賞と制裁/失敗に学ぶことの重要性
7) 本の紹介 48:環境リスク学-不安の海の羅針盤-:中西準子著、日本評論社(2004)
フレーム光度型検出器(FPD)付きガスクロマトグラフで、タバコの煙を分析したことのある人なら、煙の中に様々な有害な含硫ガスが含まれていることはご存じだろう。筆者は若かりしころ、実験の合間にこのことをやった経験がある。COSやCS2を始めとして様々なピークがガスクロマトグラフに現れてくる。CH3SH、H2Sなどの含硫ガス成分だ。何のことはない。これらのガスが脳を痺(しび)れさせてくれるのだろう。これは、タバコの煙の話。
次は、ダイオキシンの話。埼玉県の所沢市でダイオキシンの汚染問題が発生したのは、1999年2月のことだ。農業環境技術研究所の当時の農薬動態科長が現場に出かけ、問題とされた作物を採取してきて分析し、この問題の解決に大いに貢献した。そしてその問題も長い年月をかけ、2003年の末に解決された。
さて、すばらしい四季が満喫でき、きれいな空気を吸い普通の水を飲んでいるわが日本に住む平均的な人の場合、タバコの煙とダイオキシンの害とではどちらのリスクが高いだろうか。多くの人が、あまりに加熱した報道をまだ覚えていて、ダイオキシンと答えるだろう。だが正しい答は、タバコの煙だ。ダイオキシンによる人間へのリスクは、タバコのおよそ300分の1にすぎない。
では、リスクとは何か。リスクの考え方、リスクの定義や計算、リスクの読み方などが著者の科学者としての経験と共に分かりやすく書かれているのがこの本だ。リスクについての著者の主張は、実に単純明解だ。環境問題においても、コストやリスクをきちんと考え整理しよう。あらゆる危険や害をゼロにするのは不可能で無理なことだから、処理にかかるお金と発生するリスクとを比べて妥協点を考えよう。リスクとコストや便益とのバランスを重視しよう。それだけである。なんだか明解な人生論のような気もする。環境の研究や学問があまりにも小さな穴の中に入り込んだような気もする。
環境問題では、いずれも微小なリスクが大仰に取り上げられる。マスコミが不安を煽(あお)り、それが政治的に利用される。一方では、大量の予算を無駄使いするはめになる。きちんとしたデータと冷静な分析に基づく批判こそが重要なのである。このとき、コミュニケーションの道具としてのリスク論が有効性を帯びる。
この本を読んでいて、研究者に必要なことはバランスのとれた常識をもつことと、専門に侵されない総合人としての脳を鍛えることであるのかとも思った。目次は以下の通りである。
1部 環境リスク学の航跡
8) 本の紹介 49:見上 彪、食品安全委員会のこれまでの活動と今後の課題、陽 捷行編著
「食の安全と予防医学」、博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@農医連携学術叢書第6号、養賢堂、1-22 (2009)
この本は、博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@が農医連携学術叢書として出版しているシリーズもので第6号にあたる。筆者は、わが国の食品安全委員会委員長だ。平成15年7月に「食品の安全性を科学に基づき客観的かつ中立公正に評価する機関」として、内閣府に食品安全委員会が設置され、平成20年7月で5周年を迎えた。ここでは、食品安全委員会設置後の5年間の取組みを振り返り、今後の課題が整理されている。
内容は、はじめに/食品安全委員会の設置/新しい食品安全行政の枠組み/食品安全委員会の役割/食品安全委員会のこれまでの活動実績(リスク評価の実施/多様な手段を通じた情報提供/食品の安全性の確保に関する実施状況の監視等/リスクコミュニケーションの実施)/緊急事態等への対応/国際化への対応/食品安全委員会の今後の課題(リスク評価/リスクコミュニケーション/情報発信?情報提供/食品安全委員会の活動の国際化と国際連携)/おわりに、からなる。
「リスク評価の実施」では、例えば「BSEにかかわる主なリスク評価」「策定したガイドライン」「食品添加物(コンフリー等)」「農薬(メタミドホス等)」などについては、ホームページの紹介があるのできわめて実用的な情報が得られる。
伊達政宗がヨーロッパに派遣した支倉常長は、帰国後、正宗に語った。「西洋には科学というものがあります」「科学とは何か」「科学とは継承です」。科学とは、次世代のために幸福をもたらすための知識の継承なのだ。
科学とは、いつでも共通な真相を究明できるはずのものだ。日本でも中国でもイギリスでもそれを科学という。しかし今回の事件では、中国と日本の科学の結果が大きく異なった。安全とは、科学で証明できるものと思われているが、この事件はそういかなかった。
主義や思想や宗教は、万国共通ではない。科学は万国共通だ。それを科学という。中国の科学と日本の科学は異なるのか?異なるとすれば、どちらかがあるいはどちらも科学とはいえまい。となれば、今回の餃子中毒事件の真相は主義か宗教か、はたまたエイリアンのような生物のなせる仕業か。
農と環境と健康を思う者にとっては、忘れもしない。中国食品の汚染問題は3年も前から世界のメディアを賑わした。正義の化身と思っているマスコミニュケーションも、すでに忘れたかのようだが、パナマの毒シロップ事件がことの始まりだ。その後わが国のメディアも、中国製歯磨き、冷凍ウナギ、鉛入り土鍋、鉛玩具など、その常識外れの危険性を盛んに報道した。その中でも「段ボール肉まん」は、「偽ディズニーランド」「偽キティちゃん」「偽???」と肩を並べるほどの食品がらみの失笑噴飯ものだった。何を信じていいのか皆目分からない。
中国国内にいたっては、「白い春雨」「白馬小麦粉」「有毒氷砂糖」「人造卵?葡萄?クラゲ?牛肉?鶏肉」「五味醤油」「七色七味水晶もち」「果実味餅」「苛性ソーダ入りパン」「月餅」「元宵」などの食品が、魑魅魍魎よろしく蠢いているという。
輸入野菜の残留農薬問題、毒入り餃子事件、メラミン混入粉ミルク事件など、中国からの輸入食品にからむ事件が後を絶たない。しかも日中間の心理的なあつれきや政治的思惑が交錯し、問題や事件の真相と原因の解明が複雑化している。われわれの健康も政治問題の犠牲になるのか。
食品の流通は広域化し、国際化の一途を辿っている。そのため、異常プリオン、O157、鳥インフルエンザなど新たな危害要因が世界を席巻する。さらに、遺伝子組換えなどの新たな技術、またそれに伴う分析技術が向上した。このように食生活を取り巻く状況は、良しにつけ悪しきにつけ安全と安心で大きく揺れている。食の安全と安心を明確にすべく、平成15年7月、わが国の内閣府に「食品の安全性を科学に基づき客観的かつ中立公正に評価する機関」として食品安全委員会が設置された。ここでは、主義や思想や宗教に基づく安全と安心などとは規定されていない。
食品安全委員会は、海外におけるリスク評価結果や評価手法に関する情報の迅速な入手や国際的なリスク評価作業への協力が不可欠になっているところから、国際機関?外国機関との連携強化に取り組む必要があろう。
この委員会では、牛海綿状脳症(BSE)、カンピロバクター、薬剤耐性菌などのリスク評価が行われている。さらに、758物質の農薬や動物性医薬品などの評価も順次実施されている。またこの委員会は、意見交換会、リスク評価の結果説明会、インターネットでの情報公開などあらゆる機会と伝達手段を用いて、リスクコミュニケーションの推進に務めている。
科学技術は「絶対安全」を約束するものではない。しかし、さまざまな食の安全にかかわる事故を諦めることなく、事故の来る所以を分析し、原因が何かを探索する。そして、一歩でも前進した安全のための対策を練る。着実だが時間がかかるのだ。
食の安全には、ウイルスにしろ微生物にしろ多くの場合「生き物」が関連している。人間はこの「生き物」たちの多様性によって生かされているということ、人間の力がいかに卑小であるかということを再認識しながら、食の安全に立ち向かわねばならない。思想でも主義でもない。生態系の複雑なハーモニーを確認する科学のもとで。
安心は心理的な側面の強い概念だ。不安と安心は数値の世界に乗りきれない。これは脳の問題だ。脳には最初から不安という要素があって、ある現象をその脳の不安要素に常に関係づけようとしているのかも知れない。そのことを考えると、筆者には安心について書くだけの能力がない。そこで、安全、安心、リスクの科学に関してこれまで「情報:農と環境と医療」(博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@)や「情報:農業と環境」(農業環境技術研究所)でも紹介した書籍を脈絡なく、さらに改変して以下に紹介する。なお、上で述べた内容の一部は、筆者が書いた内容(食の安全?安心と「生き物」、ビオストーリー、11, 108-109 (2009))と一部重複していることをお断りしておく。
1) 本の紹介 42:リスク学事典、日本リスク研究学会編、TBSブリタニカ(2000)
環境とは人間と自然の間に成立するもので、人間の見方や価値観が色濃く刻み込まれたものだ。だから、人間の文化を離れた環境というものは存在しない。しかしこれまでの環境に関わる書籍は、自然科学系や社会科学系の各専門分野の領域においてそれぞれ個別に書かれたものが多く、人間の見方や価値観など文化をも取り入れ専門分野を超えた総合科学として論じたものは少なかった。
この本はこの問題を克服している。リスクの研究者ばかりでなく、広く環境に関わる研究者?施策者?学生?市民にも解りやすい。われわれの身近な生活の問題として環境問題を実践するにあたって、良い指針となる。なぜならこの本の目指すところが、自然環境および社会環境と人間活動との関わりから生じるリスク事象について解析?評価し、リスク情報の伝達?意志決定?リスクの対処方法ならびに施策決定方法を紹介しているからだ。
この本の理念は、次のようにまとめられている。「市民社会の進展に合わせて、リスクを適切に認知?解説?評価し、個人と社会が適切な対応策をとり、リスクと賢くつきあいながら、生活の質を高めつつ、持続的に発展する経済社会を構築してゆくことが重要である」。
この本のタイトルは「リスク学事典」となっているが、物や事がらの内容を画一的に説明した従来の「事典」とは異なり、体系的でわかりやすい。以下に示すように、第1章の概説では、リスクの概念と方法として全体の内容をまとめている。第2章では、環境リスクの概念が従来の「(化学物質による)環境保全上の支障を生じさせる恐れ」から、「ある技術の採用とそれに付随する人の行為や活動によって、人の生命の安全や健康、資産並びにその環境に望ましくない結果をもたらす可能性」へと広義な定義になっている。例えば地球温暖化?オゾン層破壊などは、地球規模のリスクであると同時に次世代にまで影響を与えるから、グローバル?次世代リスクと呼ばれ、様々なリスクが登場する。これら各種のリスクの内容と対応について紹介している。
第4章では、遺伝子組み換え技術やクローン技術など生命科学が生みだす技術をどうみるのか、高度技術社会において「どれくらい安全なら十分なのか」など技術リスクの受容水準や、これらの技術がもたらす倫理問題などが紹介される。
第6章ではリスク評価手法として、人への健康影響評価、環境中の生物へのリスク評価手法、および今後の課題が紹介される。また、システムズアプローチによるリスク評価の考えとして、生産?消費?廃棄の過程で物質や水?呼気?食品を介したシステムにおける物質系リスクの構造把握、食物連鎖を介し化学物質などによる生物多様性の減少程度の推定などの評価法が紹介される。
第7章では、リスクとリスク認知の相違及びリスク認知の心理学的測定法が紹介される。また、リスクとなる対象物のもつ肯定的な側面だけではなく、否定的な側面についての情報、すなわちリスクはリスクとして公正に伝え、行政?企業ばかりでなく市民も含めた関係者が共考しうるコミュニケーション、「リスクコミュニケーション」の理念とその手法が紹介される。
第1章 リスク学の領域と方法
[概説] リスク学の領域と方法-リスクと賢くつきあう社会の知恵-
第2章 健康被害と環境リスクへの対応
[概説] 健康被害、健康リスク、環境リスク
[概説] 環境リスクの概念の変化と次世代?グローバルリスクの登場
第3章 自然災害と都市災害への対応
[概説] 自然災害のリスクマネジメント
[概説] まれな災害に備えつつ、暮らしの豊かさを求める-まちづくりとのかかわり-
第4章 高度技術リスクと技術文明への対応
[概説] 技術リスクと高度技術社会への対応
第5章 社会経済的リスクとリスク対応社会
[概説] 社会経済的リスクの分析とマネジメント
第6章 リスク評価の科学と方法
[概説] リスク評価の科学的手法
[概説] システムズアプローチによるリスクの構造的把握
第7章 リスクの認知とコミュニケーション
[概説] リスク認知とリスクコミュニケーション
第8章 リスクマネジメントとリスク政策
[概説] リスク対応の戦略、政策、制度
2) 本の紹介 43:増補改訂版 リスク学事典、日本リスク研究学会 編、阪急コミュニケーションズ(2006)
高度な技術の開発によって、人間活動はより豊かになった。一方、紙の表には必ず裏があるように、技術の開発や産業の発展に伴って新たなリスクも発生している。自然災害による生命や財産の安全に対するリスクの回避策を構築することも重要な課題だ。
近年、地球的規模での環境問題も顕在化し、社会生活を取り巻く多種多様なリスクについて科学的に認知、解析、評価、管理することが求められている。しかし、リスク学研究の歴史はきわめて浅く、学問的に確立したものではなかった。そのため、上述したように日本リスク研究学会は、リスク学の専門用語を学問的、体系的に整理した分野別項目事典として「リスク学事典」を2000年に出版した。
初版の「リスク学事典」では、リスクを「人間の生命や経済活動にとって、望ましくない事象の発生の不確実さの程度およびその結果の大きさの程度」と定義し、各種リスクの発生や拡大状況とそのメカニズム、対策と問題点などを分かりやすく説明している。環境を通した農と健康の研究を実施するに当たって、本書はリスクという新たな概念を理解し研究の方向性を探るうえで多くの有益な知見を与えてくれる。
BSEや食品偽装の問題、高齢化による社会保障問題、地震や水害などの自然災害、犯罪の増加など、国際的、国内的にも新たなリスクへの関心が高まっている。安全?安心を求める国民の声も大きく、コミュニケーションの構築も必須になっている。このような状況において、リスク学への期待が一層大きくなっているとの判断から、増補改訂版が刊行された。
本書では、初版全体が見直されるとともに、「第9章リスク対応の新潮流」が新たに追加された。この章では、2003年以降、国内で問題になっているBSE、高病原性鳥インフルエンザを対象に、食品安全におけるリスクアナリシスのあり方、化学物質のリスク評価と管理、遺伝子組み換え体やIT技術など新技術によるリスクなど、それぞれの問題点を整理しリスク軽減に向けた方法を提示している。とくに新たに発生するリスクの多くは、国際的基準や連携のもとに管理する必要性が高まっており、国際的な視野が求められる。また、国内的にも、国民の相互理解を図るリスクコミュニケーションが位置づけられ、行政的にも多くの省庁の連携なしにリスク管理はできないことが特筆されている。
さらに、社会が成熟し価値観や倫理観が変わってきた段階でのリスクマネジメントや、安全?安心とゼロリスク認知の関係についても解説され、「社会の構成員が精神的現実として安心を獲得することと、専門家が物理的現実をもとにおこなうリスクアセスメントとの調和が求められている」と結論している。本書は学問的にも高度で、最近発生しているリスクを正確に捉え、その解決方策を導く上で的確な指針を提示しており、「リスク研究」の参考書として大いに活用されるものだろう。
3) 本の紹介 44:化学物質と生態毒性:若林明子著、産業環境管理協会、丸善(2000)
化学物質への対策は、ヒトへの健康影響だけを考えるのでは片手落ちだ。生態系や農業生産への影響を含め総合的かつ体系的な対策が必要だ。食物連鎖に見られるように、ヒトは生態系の一部であるにすぎない。わが国における化学物質の環境基準の制定などには、ヒトへの健康影響は配慮されるが、生態系や農業生産を守り育てるという視点に欠けている。
この本は、有機スズ、ダイオキシン、界面活性剤など環境汚染化学物質による生態系への影響評価および毒性評価を生態毒性学の視点から集約したものだ。本書の大部分は、「環境管理」誌にシリーズで連載された報文を基に書かれている。この種の本は、普通、多くの著者による分担執筆の形がとられる。しかし本書は、一人ですべての項目を執筆しており、内容に一貫性がある。
生態系への毒性試験の詳細な解説、定量的構造活生相関(QSAR)、化学物質の環境動態で重要な役割を演じている生分解性や内分泌攪乱性の事項まで取りあげている点も特徴の一つだ。付録として、経済協力開発機構(OECD)と環境庁のガイドラインが記載されている。また付表として、各国の水質基準、主要化学物質一覧、主要魚名が記載されており、大変便利だ。なお、本書の目次は次の通り。
1.国内外における生態系保護対策の動向/2.水生生物を用いた毒性試験/3.試験生物種や発育段階と毒性/4.試験時の水質変化と毒性/5.慢性毒性値の推定方法/6.毒性発現の作用様式/7.構造活性相関/8.化学物質の水生生物への複合毒性/9.水生生物への蓄積と濃縮/10.生分解性と生体内変化/11.野生生物で生じているホルモンの大攪乱/12.ダイオキシン類のエコトキシコロジー/13.界面活性剤のエコトキシコロジー/14.GESAMPの有害性評価手順の改定/15.米国における水質管理への適用
4) 本の紹介 45:化学物質は警告する、-「悪魔の水」から環境ホルモンまで-、常石敬一著、洋泉社(2000)
「はじめに」に著者は書く。すべて「先送り」にしてきたと。化学物質がこの一世紀にわたり、人間に多くの豊かさを与えてきた反面、少しずつ不利益という形で挑戦してきた問題を見極め、人間がそれをどうはね返せるかを、一人ひとりが考えること、これが本書の目的だと。「はじめに」で著者は続ける。「先送りされてきた問題、化学物質からの人間へのチャレンジが、今や先送りできないことを示しているのが環境ホルモン(内分泌攪乱化学物質)だ。今、化学(科学)の世界はあたかも飽和状態のように見える。それだけ若者にとって魅力の少ない分野となっているのだろう。しかし化学物質からのチャレンジということは、自然からのそれでもある。それにまともに応えなければならないということは、本書の最後にも述べるが、新しい科学を建設することにつながると私は考えている。今や、化学(科学)は多くのチャレンジ精神に富む若者にとって、挑戦し甲斐のある魅力ある分野だと考えている」。
現在、化学物質は毎日2000種が登場し、12万種が流通しているという。しかしその結果、われわれの身の回りには人間が意図的に、またときによっては非意図的に作りだした毒物であふれている現実がある。毒物の種類は二通りある。一つは食品添加物などで、毒と知っていて毎日摂るもの。もうひとつは和歌山の「亜ヒ酸入りカレー事件」のように、知らないで摂って被害を受けるものだ。いずれにしても、われわれの周りにはわれわれが作った人工物質に満ち満ちている。
「あとがき」で著者はこう締めくくる。「わたしは内分泌攪乱化学物質は、人類の将来を破壊する化学的な時限爆弾ではないか、と危惧している。これらは、これまでの多くの人工的に作り出され、利用されてきた化学物質とは違い、問題が出てから対応するのでは手遅れとなる。"沈黙の春"の"明日のための寓話"が現実のものになると考えている。そうさせないために、化学物質からのメッセージを受け止め、未来を確保するための戦略を作り出さなければならない。これは未来を信ずる一人ひとりに課せられた課題だ」と。以下に目次を紹介する。
序 章 毒にも薬にもなる化学物質
[1] 人間は毒物とどのように付き合ってきたのか?
[2] 化学物質が凶器=化学兵器に変わる瞬間
第1章 ヒ素 猛毒中の猛毒物質
[1] 猛毒のメカニズムとその歴史的足跡
[2] 明と暗の両面を持つ化学物質
第2章 窒素:火薬?肥料の原料として出発
第3章 塩素:もっとも身近な化学物質
[1] 殺菌作用と漂白作用の発見
[2] 有機塩素化合物が環境ホルモンになるまで
第4章 青酸:「生命の起源」にもかかわる猛毒物質
第5章 リン:三大「神経ガス」の原料
第6章 水銀:回収?再利用が行われている危険物質
第7章 PCB?ダイオキシン?フロン:地球と人類に敵対する最悪の化学物質
第8章 環境ホルモン:二十一世紀の科学革命と内分泌攪乱化学物質との闘い
5) 本の紹介 46:社会的共通資本、宇沢弘文著、岩波新書696(2000)
著者は、日本の代表的な近代経済学者(マクロ経済学)で東京大学名誉教授。1983年文化功労者、1989年日本学士院会員、1995年米国科学アカデミー客員会員、1997年文化勲章、2009年にはブルー?プラネット賞を受賞した国際的にも著名な経済学と環境科学の泰斗である。
この項を書いている筆者は、10年以上も前にNHK教育テレビジョンで氏と対談する光栄に浴したが、声の優しいきわめて温厚な紳士だ。ブルー?プラネット賞受賞のときの台詞が忘れられない。「経済学はお金のことを語る学問ではない。人びとを幸福にするための学問である」。
さて、本の紹介に入る。大気汚染、水質汚濁といった産業公害問題は、その大方を科学技術によって解決してきたし、今後もされるだろう。しかし、地球環境問題や食料問題を解決するには科学技術のみでは解決が不可能で、社会システムの改変が不可欠となってくる。このため、技術系の研究者もこれらの問題を解決するためは、社会?経済的アプローチを理解することが必要だ。この本は経済学者が技術系の研究者にも分かりやすく、簡潔に書かれた環境問題を思索したものだ。
著者は序章で次にように述べる。「20世紀の世紀末を象徴とする問題は、地球温暖化、生物多様性の喪失などに象徴される地球環境問題である。とくに、地球温暖化は、人類がこれまで直面してきたもっとも深刻な問題であって、21世紀を通じて一層、拡大し、その影響も広範囲にわたり、子や孫たちの世代に取り返しのつかない被害を与えることは確実だといってよい。地球温暖化の問題は、大気という人類にとって共通の財産を、産業革命以来、とくに20世紀を通じて、粗末にして、破壊しつづけたことによって起こったものである。人間が人間として生きて行くためにもっとも大事な存在である大気をはじめとする自然環境という大切な社会的共通資本を、資本主義の国々では、価値のない自由財として、自由に利用し、広範にわたって汚染しつづけてきた。また、社会主義の国々でも、独裁的な政治権力のもとで、徹底的に汚染し、破壊しつづけてきたのである」。そして「21世紀の世紀末的な状況を超えて、新しい世紀の可能性を探ろうとするとき、社会的共通資本の問題が、もっとも大きな課題として、私たちの前に提示されている」と、本書タイトルである「社会的共通資本」の重要性を説明している。
第1章で著者は次のように述べる。「20世紀の資本主義と社会主義の二つの経済体制の対立、相克が世界の平和をおびやかし、数多くの悲惨な結果を生み出し、20世紀末の社会主義世界が全面崩壊する一方、世界の資本主義の内部矛盾が'90年代を通じて、一層拡大化され深刻な様相を呈しつつある。この混乱と混迷を越えて、新しい21世紀への展望を開こうとするとき、もっとも中心的な役割を果たすのが制度主義の考えである。制度主義は資本主義と社会主義を越えて、すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限に享受できるような経済体制を実現しようとするものである。制度主義の経済制度を特徴づけるのは社会的共通資本と、さまざまな社会的共通資本を管理する社会的組織のあり方である」。
また、「制度主義のもとでは生産、流通、消費の過程で制約的になるような希少資源は、社会的共通資本と私的資本との二つに分類される。社会的資本は私的資本と異なって、個々の経済的主体によって私的な観点から管理、運営されるものではなく、社会全体にとって共通の資産として社会的に管理、運営されるものを一般的に総称する」。
そして、第2章から第6章までは日本の場合について、著者は「社会共通資本の重要な構成要素である自然環境、都市、農村、教育、医療、金融などという中心的な社会的共通資本の分野について、個別的事例を中心としてそれぞれの果たしてきた社会的、経済的役割を考えるとともに、社会的共通資本の目的がうまく達成でき、持続的な経済発展が可能になるためにはどのような制度的前提条件が満たされなければならないか」を思索している。
第2章の農業と農村で著者は「資本主義的な市場経済制度のもとにおける農業とは、その市場価格体系で、各農家が受けとる純所得が決まり、その所得の制度条件のもとで各農家は家族生活、子弟の教育のための支出をはじめ、種子、肥料、農薬など、農の営みに必要な生産要素を購入し、さらに新しい農地の購入、技術開発、栽培方法の改良のためにさまざまな活動と投資を行い、原則として、収支が均衡すると考える」としている。しかし、我が国の現状では、このような農業が成立することは極めて希であるから、「農業という概念規定より、農の営みという考えにもとづいて論議を進めた方がよいのではなかろうか」、「農の営みは人類の歴史とともに古く、自然の論理にしたがって、自然と共存しながら、私たちが生存して行くために欠くことのできない食糧を生産し、衣料類、住居をつくるために必要な原材料を供給する機能を果たしてきた。その生産過程で自然と共存しながら、それに人工的な改変を加え生産活動を行うが、工業部門とは異なって、大規模な自然破壊を行うことなく、自然に生存する生物と直接関わりを通じてこのような生産がなされるという、農業の基本的特徴を見いだすことができる。この農業のもつ基本的性格は工業部門での生産過程ときわめて対照的なものであって、農業にかかわる諸問題を考察するときに無視することができない」と、農の営みとその生産過程の特徴を説明している。
さらに、「農業の問題を考察するときにまず必要なことは、農業の営みがおこなわれる場、そこに働き、生きる人々を総体としてとらえなければならない。いわゆる農村という概念的枠組みのなかで考えをすすめることが必要である」、「一つの国がたんに経済的な観点だけでなく、社会経済的観点からも、安定的な発展を遂げるためには、農村の規模がある程度、安定的水準に維持されることが不可欠である」、これまで「農村の果たす、経済的、社会的文化的人間的な役割の重要性にふれてきた。資本主義的経済体制のもとでは、工業と農村の間の生産性格差は大きく、市場的な効率性を基準として資源配分がされるとすれば、農村の規模は年々縮小せざるをえないのが現状である。さらに国際的観点からの市場原理が適用されることになるとすれば、日本経済は工業部門に特化して、農業の比率は極端に低く、農村は事実上、消滅するという結果になりかねない」、このため「まず、要請されることは、農村の規模をある一定の、社会的観点から望ましい水準に安定的に維持することである。」、そして「農村を一つの社会的共通資本と考えて、人間的魅力のある、すぐれた文化、美しい自然を維持しながら、持続的な発展をつづけることができるコモンズを形成しようということである。しかし、このような環境的条件を整備するだけでは工業と農業との格差は埋めることはできない。なんらかのかたちでの所得補助が与えられなければ、この格差を解消することは困難である」と、述べている。
しかし著者は、「一戸、一戸の農家経済的、経営的単位として考えないで、コモンズとしての農村を経済的主体として考えようというとき、日本経済の存立の前提条件である経済的分権性と政治的民主主義に根元的に矛盾するのではないかという疑問」を提起し、この疑問を解決するために、生物学者のガーレット?ハディーンが1968年「サイエンス」に寄稿した論文「共有地の悲劇」を引用し、コモンズの理論について詳しく説明している。この論文が出されると、文化人類学者、エコロジスト、経済学者たちの間で大きな論争が展開され、持続的可能な経済発展というすぐれて現代的課題を考察するに中心的役割を果たしたが、この論文から著者はコモンズについて次のように解説している。
「コモンズとは、もともと、ある特定の人々の集団あるいはコミュニティにとって、その生活上あるいは生存のために重要な役割を果たす希少資源そのものか、あるいはそのような希少資源を生み出すような特定の場所を限定して、利用にかんして特定の規約を決めるような制度を指す。伝統的なコモンズは灌漑用水、漁場、森林、牧草地、焼き畑農耕地、野生地、河川、海浜など多様である。さらに地球環境、とくに大気、海洋そのものもコモンズにあげられる」、そして、著者は「コモンズはいずれも、さきに説明した社会的共通資本の概念に含まれ、その理論がそのまま適用されるが、ここでは各種のコモンズについてその組織、管理のあり方について注目したい。とくに、コモンズの管理が必ずしも国家権力を通じでおこなわれるのではなく、コモンズを構成する人々の集団ないし、コミュニティからフィデュシアリー(fiduciary:信託)のかたちで、コモンズの管理が信託されるのがコモンズを特徴づける重要な性格である」と、述べている。
第1章では、地球温暖化と生物種の多様性の喪失などという地球環境に関わる問題について、人類全体にとっての社会的共通資本の管理?維持という観点から考察している。著者は自然環境を経済理論から定義し、「自然環境とは森林、草原、河川、湖沼、海洋、水、地下水、土壌、さらに大気などを指し、森林とは、森林に生息する生物群集、伏流水として流れる水も含めた総体である」としている。「自然環境は経済理論でいうストックの次元をもつ概念であり、経済的役割からみると、自然資本と表現できる。自然資本のストックの時間的経過や変化は、生物学的、エコロジカル、気象的な諸条件によって影響され、きわめて複雑に変化する。このため、工業部門における「資本」の減耗あるいは資本とは本質的に異なる」、「また、自然環境を構成するさまざまな要素は相互作用など複雑な関係が存在し、自然環境の果たす経済的機能に大きな影響を与える。このため、自然環境の果たす経済的役割は工場生産のプロセスにみられる決定論的、機械論的な関係を想定できず、本質的に統計的、確率理論的な意味を持つ」と、述べている。
また、著者は1994年ナイロビで開催されたIPCCの「気象変化に関する倫理的、社会的考察」の協議会で発表されたアン?ハイデンライヒとデヴィド?ホールマンの論文「売りに出されたコモンズ-聖なる存在から市場的財へ」を引用している。この論文は自然環境が文化、宗教とどのようなかたちでかかわっているかを考察している。その中で、「アメリカ?インディオが信じていた宗教は、自然資源を管理し、規制するためのメカニズムであり、その持続的利用を実現するための文化的伝統であった。これに対して、キリスト教の教義が自然に対する人間の優位に関する理論的根拠を提供し、人間の意志による自然環境の破壊、搾取に対してサンクションを与えた。同時に自然の摂理を巧みに利用するための科学の発展も、また、キリスト教の教義によって容認され、推進されていった。」という内容、すなわち、環境の問題を考えるとき、宗教が中心的役割を果たしていることに著者は注目している。
さらに、著者は環境と経済の関係について、この30年ほどの間に本質的に大きな変化が起こりつつあることを、第1回環境会議と第3回環境会議から考察している。著者は「第1回環境会議の主題が公害問題であったのに対して、第3回環境会議では地球規模の環境汚染、破壊が主題であった」、なかでも「地球温暖化の問題の特徴について述べ、地球温暖化問題は公害問題に比較して、その深刻性、緊急性は遙かに小さく、その直接的な社会、政治への影響は軽微である。しかし、地球全体の気候的諸条件に直接関わりをもち、また、遠い将来の世代にわたって大きな影響を与えるという点から見て決して無視することのできない深刻な問題を提起している」と、述べている。また、この問題に対する経済的対応策として第3回環境会議において持続可能な経済発展の概念が提案され、定常状態と経済発展について述べている。さらに、著者は地球温暖化を防いで安定した自然環境を長期にわたって守っていくための方策として、社会共通資本の理論から炭素税、二酸化炭素税、さらには環境税の考えを提案し、スウェーデンの炭素税制度を紹介している。目次は以下の通り。
はしがき?序章?ゆたかな社会とは/第1章 社会的共通資本の考え方/第2章 農業と農村/第3章 都市を考える/第4章 学校教育を考える/第5章 社会的共通資本としての医療/第6章 社会共通資本としての金融制度/第7章 地球環境
6) 本の紹介 47:安全と安心の科学:村上陽一郎著、集英社新書(2005)
これは、人間のもつ「リスクに立ち向かう」営みについて書かれた本だ。科学?技術は「絶対安全」を約束するものではない。しかし、さまざまな事故を諦めることなく、事故の来る所以を分析し、何かを探し出す。そして、一歩でも前進した事故対策を練る。時には人間の力がいかに卑小であるかを再認識し、自然の力の雄大さに再び頭を垂れる。そのような思いをもちながらこの本は書かれている。以下に各章の内容を紹介する。
序論 「安全学」の試み:ここ10年の間に、安全と安心は社会の合い言葉のようになった。「科学技術基本計画」でも、「安全で安心できる国」なるスローガンが掲げられている。その背景には、自然と人間との接点で起こる自然災害がある。続いて、戦争や凶悪犯罪など人間が人間の安全を脅かしている現実がある。また、人間が作った人工物に脅かされている人間がいる。それは、自動車であり原子力であり食料だ。
一方では、社会構造の変化からくる外化(著者の定義:現代社会は、過去においては個人の手に委ねられてきたさまざまな機能や能力を、個人から取り上げ、それを社会の仕組みのなかで達成させようとする傾向がある。少しぎこちない言葉だが、それを「外化」という言葉で呼ぶことにしましょう)や年金への不安が顔を覗かせる。また、文明化の進展によって変化する疾病の構造への不安がある。社会を構成している成員がその社会に違和感を持ち、自分が社会のなかであるべき場所を見出せない不安が充満している。
社会によってさまざまな不安が存在する。文明の発達した社会が、その成員にとって決して好ましい安全と安心がある環境ではないのだ。加えて、仮に「安全」でも「安心」は得られないのだ。危険が除かれ安全になったからといって、必ずしも安心は得られない。
「不足」や「満足」は心理的な側面の強い概念であるけれども、ある程度数値化が可能である。しかし、「不安」と「安心」はそうした数値の世界に乗り切らない。ひょっとしたら、脳には最初から不安という要素があって、ある現象をその脳の不安要素につねに関係づけようとしているのかもしれない。いずれにしても、この本の提唱する「安全学」とは、「安全-危険」、「安心-不安」、「満足-不足」という軸を総合的に眺めて、問題の解決を図ろうとするものと理解すればよいだろう。
第1章 交通と安全-事故の「責任追求」と「原因究明」:著者は序論で、戦争や原子力や震災に比べて、自動車事故について「年間八千人、つまり阪神?淡路大震災での死者数を上回り、毎日確実に20人以上の死者を生み続けている交通の現場に対する社会の関心の低さは異常でもあります」と指摘している。確かにこの異常さは、どこからくるものか、不思議な現象だ。「交通と安全」と題するこの章では、上述した自動車事故についての「責任追及」と「原因究明」の違いと、「原因究明」の必要性について解説する。このことを理解させるために、航空機のフール?プルーフ(注:不注意があってもなお、致命的な結果におちいらないようにする技術的工夫)やナチュラル?マッピング(注:操作パネルなどの設計に当たって、「自然」であることを一義に立てることを意味する)などを例に出す。
交通事故が起こる。事故の調査が行われる。事故の調査が「責任追及」の観点から行われる。このことは確かに必要だが、事故の調査がそのような観点だけから行われることが問題だと指摘する。すなわち、事故原因の究明が次の事故の防止のためになされなければならないとする。これが「原因の究明」だ。安全へ導くインセンティブの欠如を指摘しているのだ。
過去に学ばないものは、同じ過ちを繰り返す。このことこそ、どのような現場であろうと安全の問題に取り組むときの黄金律(この項の筆者の注:golden rule、新約聖書のマタイ福音書にある山上の説教の一説「すべて人にせられんと思うことは人にもまたそのごとくせよ」)なのだ。このことは、すべての事象に当てはまる。歴史を見る目であり、科学をする意識であり、生命を継続させる目だ。歴史に学ぶとは、どんな分野においても先人が語ってきた忘れてはならない定説なのだ。
第2章 医療と安全-インシデント情報の開示と事故情報:失敗?事故?アクシデント?インシデントから学ぶことが強調される。事故が起きた。報告制度がある。なぜ報告が必要か。起こった不都合な出来事を共有する。なぜ共有するか。今後の改善を目指すために重要だから。医療現場に多い「患者取り違え」事件で、このことを説明する。それでも、人間は間違える。「人間は間違える」ことを、To Err is Humanで解説し、フール?プルーフ(愚行、ミス、エラーに対して備えができている)、フェイル?セーフ(失敗があっても安全が保てる)を解説しながら安全を保つことの必要性が語られる。さらに安全については、「医療の品質管理」の導入が必要であると強調される。医療はそもそもが、危険と隣り合わせにある。したがって、危機を承知の上で行われる行為でもある。そこで問題が起こっても、それが問題であるかどうかさえ判らないままに、ミスや誤りが明確化されない傾向が強いから、医療の品質管理は責任の上からも重要であると説く。
続いて医療の安全を語るために、戦後世間の耳目を集めた「薬害事件」が、その背景とともに紹介される。睡眠薬サリドマイドを妊娠初期に服用した妊婦から生まれた子供に、先天性の奇形が発生したサリドマイド事件。キノホルムが絡む消毒剤による薬害事件で、亜急性?背髄?視神経?末梢神経障害(subacute myelo-optic-neuropathy)の頭文字から名付けられたスモン。マラリアの治療薬を慢性の炎症や肝炎などに拡大し、視力障害をもたらしたクロロキン事件。ある種の抗癌剤と併用すると、死亡も含む重篤な障害が発生するヘルペス治療薬として開発されたソリブジン。血友病の治療のために使われてきた非加熱血液製剤に含まれていたHIVによる感染症など。加えて、医療スタッフの安全問題が語られる。医療の責任に対する心理的な重圧、治療中の事故による感染、院内感染など医療者の安全も忘れてはならない問題であると、話は続く。
第3章 原子力と安全-過ちに学ぶ「安全文化」の確立:この章では、原子力事故を通して「過ちに学ぶ」ことを力説する。そのためには、「技術と知識の継承」「暗黙知の継承」「初心忘るべからず」「安全文化」が重要であると指摘する。安全文化とは、国際原子力機関が、相次ぐ事故を教訓として国際的に原子力関係者に向けた啓発活動として提唱してきた概念である。
安全文化は二つの要素からなる。一つは組織内の必要な枠組みと管理機構の責任の取り方である。二つ目は、あらゆる階層の従業員が、その枠組みに対しての責任の取り方および理解の仕方において、どのような姿勢を示すか、という点だ。この内容は単なる精神主義ではなく、広く一般に活用できるので以下にその一部を記載しておく。
個々の従業員には、
- 常に疑問を持ち、それを表明する習慣を付けること
- 厳密で思慮深い行動をとるには、何を心がけるかを考えること
- 相互?上下の間のコミュニケーションを十分に円滑にすること
管理的業務者には、
- 責任の範囲を常に明確にして隙間がないようにする
- 部下の安全を発展させる実践活動を明確に分節化し、かつそれを統御すること
- 部下の資質を見抜き十分な訓練を施すこと
- 褒賞と制裁とを明確に行うこと
- 常に監査、評価を怠らず、また異分野や他のセクションとの比較を怠らないこと
さらにここでは、「科学者共同体」と専門知識の関係が解説される。それを受けて、どのようにして専門知識が外部社会に利用されるようになったかの説明がある。これらの歴史的な経過を経て、はじめて安全が獲得されていくのだ。つまり科学の本来の姿は、知識の生産?蓄積?流通?利用?評価などが完全に科学者共同体の内部に限定された形で行われる。すなわち、自己完結的な活動なのだ。しかし、原子力の場合、科学者共同体の外の組織である行政や軍部に利用の道が開かれたのだ。このときから科学は、科学者の好奇心を満足させるための自己完結的な知的活動であると同時に、その成果を外部社会が、とくに国家が、自分たちの目的を達成するために利用できる宝庫にしたのだ。
また原子力産業の特異性が、原子力発電所事故のカテゴリー分類、スリーマイル島原子力発電所事故、チェルノブイリ原子力発電所事故、東海村JCO臨界事故などを例に解説される。
第4章 安全の設計-リスクの認知とリスクマネジメント:はたして「リスク」の訳語が「危険」で、「マネジメント」の訳語が「管理」なのかという疑問から始まり、「リスク」という語の語源の定説が紹介される。「リスク」には「人間の意志」または「人間の行為」が絡んでいる。行為には「利益」が伴い、その「利益」を追求しようとする意志がある。リスクの中で問題になる「危険」は、「可能性として」の「危険」であり、しかも何らかの意味で人間が「利を求めることの代償」としての「危険」ということになる。
つづいて、「リスク認知の主観性」が語られる。リスクは不安や恐れと表裏をなす概念であるから、「心理的」な意味あいをもつ。だからある喫煙者は、喫煙という行為が客観的にリスクがきわめて大きいにもかかわらず、何倍もリスクの低い組換え体作物の方にリスクに関する情熱を傾けたりする。
リスクの認知は、慣れていないもの、未知のものへの恐れなどに過大に現れる。また、自己から時間的、空間的な距離が遠くなるにつれて、認知度は低下する。結局、リスクの認知は、主観的あるいは心理的な要素を多分に含むもので、個人や社会の価値観と密接に繋がっている。このように主観的な色合いの濃いリスクに対しては、ある程度の客観性が与えられなければならない。これがリスクの定量化だ。このようなリスクの背景が語られ、リスクの認知、定量化、評価が紹介される。当然のことであるが、認知され、定量化された事故についてのリスクは、評価に基づいて起こらないように管理される必要が生じる。
第5章 安全の戦略-ヒューマン?エラーに対する安全戦略:前章のリスクの認知、定量化、評価、管理上の問題点にはヒューマン?ファクターは除外して算定されていた。この章は、ヒューマン?エラーが起こったとき、どのような安全への戦略が可能か、また、システムの安全を目指すときに、それに関わる人間の意識として、何が必要かという点に焦点が絞られる。
そのような視点から次の項目が設定、解説される。安全戦略としての「フール?プルーフ」と「フェイル?セーフ」/「安全」は達成された瞬間から崩壊が始まる/ホイッスル?ブロウ(注:危険を察知して、警告を発する)の重要性/ヒューマン?エラーが起こるときの条件/アフォーダンス(注:生物が自分以外の何ものかと出会ったとき、どのように感じるか、という場面で生じる特性)に合っていること/回復可能性/複合管理システム/簡潔?明瞭な表示法/コミュニケーションの円滑化/褒賞と制裁/失敗に学ぶことの重要性
7) 本の紹介 48:環境リスク学-不安の海の羅針盤-:中西準子著、日本評論社(2004)
フレーム光度型検出器(FPD)付きガスクロマトグラフで、タバコの煙を分析したことのある人なら、煙の中に様々な有害な含硫ガスが含まれていることはご存じだろう。筆者は若かりしころ、実験の合間にこのことをやった経験がある。COSやCS2を始めとして様々なピークがガスクロマトグラフに現れてくる。CH3SH、H2Sなどの含硫ガス成分だ。何のことはない。これらのガスが脳を痺(しび)れさせてくれるのだろう。これは、タバコの煙の話。
次は、ダイオキシンの話。埼玉県の所沢市でダイオキシンの汚染問題が発生したのは、1999年2月のことだ。農業環境技術研究所の当時の農薬動態科長が現場に出かけ、問題とされた作物を採取してきて分析し、この問題の解決に大いに貢献した。そしてその問題も長い年月をかけ、2003年の末に解決された。
さて、すばらしい四季が満喫でき、きれいな空気を吸い普通の水を飲んでいるわが日本に住む平均的な人の場合、タバコの煙とダイオキシンの害とではどちらのリスクが高いだろうか。多くの人が、あまりに加熱した報道をまだ覚えていて、ダイオキシンと答えるだろう。だが正しい答は、タバコの煙だ。ダイオキシンによる人間へのリスクは、タバコのおよそ300分の1にすぎない。
では、リスクとは何か。リスクの考え方、リスクの定義や計算、リスクの読み方などが著者の科学者としての経験と共に分かりやすく書かれているのがこの本だ。リスクについての著者の主張は、実に単純明解だ。環境問題においても、コストやリスクをきちんと考え整理しよう。あらゆる危険や害をゼロにするのは不可能で無理なことだから、処理にかかるお金と発生するリスクとを比べて妥協点を考えよう。リスクとコストや便益とのバランスを重視しよう。それだけである。なんだか明解な人生論のような気もする。環境の研究や学問があまりにも小さな穴の中に入り込んだような気もする。
環境問題では、いずれも微小なリスクが大仰に取り上げられる。マスコミが不安を煽(あお)り、それが政治的に利用される。一方では、大量の予算を無駄使いするはめになる。きちんとしたデータと冷静な分析に基づく批判こそが重要なのである。このとき、コミュニケーションの道具としてのリスク論が有効性を帯びる。
この本を読んでいて、研究者に必要なことはバランスのとれた常識をもつことと、専門に侵されない総合人としての脳を鍛えることであるのかとも思った。目次は以下の通りである。
1部 環境リスク学の航跡
- 1章 最終講義「ファクトにこだわり続けた輩がたどり着いたリスク論」
- 2章 リスク評価を考える-Q&Aをとおして
- 3章 環境ホルモン問題を斬る
- 4章 BSE(狂牛病)と全頭検査
- 5章 意外な環境リスク
8) 本の紹介 49:見上 彪、食品安全委員会のこれまでの活動と今後の課題、陽 捷行編著
「食の安全と予防医学」、博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@農医連携学術叢書第6号、養賢堂、1-22 (2009)
この本は、博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@が農医連携学術叢書として出版しているシリーズもので第6号にあたる。筆者は、わが国の食品安全委員会委員長だ。平成15年7月に「食品の安全性を科学に基づき客観的かつ中立公正に評価する機関」として、内閣府に食品安全委員会が設置され、平成20年7月で5周年を迎えた。ここでは、食品安全委員会設置後の5年間の取組みを振り返り、今後の課題が整理されている。
内容は、はじめに/食品安全委員会の設置/新しい食品安全行政の枠組み/食品安全委員会の役割/食品安全委員会のこれまでの活動実績(リスク評価の実施/多様な手段を通じた情報提供/食品の安全性の確保に関する実施状況の監視等/リスクコミュニケーションの実施)/緊急事態等への対応/国際化への対応/食品安全委員会の今後の課題(リスク評価/リスクコミュニケーション/情報発信?情報提供/食品安全委員会の活動の国際化と国際連携)/おわりに、からなる。
「リスク評価の実施」では、例えば「BSEにかかわる主なリスク評価」「策定したガイドライン」「食品添加物(コンフリー等)」「農薬(メタミドホス等)」などについては、ホームページの紹介があるのできわめて実用的な情報が得られる。
言葉の散策 29:朝?昼?夕?夜
語源を訪ねる 語意の真実を知る 語義の変化を認める
そして 言葉の豊かさを感じ これを守る
そして 言葉の豊かさを感じ これを守る
一年が始まりました。一年は一日が365日積み重なった時間です。一日は朝?昼?夕?夜からなります。これらの漢字の語源を追ってみましょう。そして、新年の挨拶を万葉集で始めたので、万葉集に使われている「朝?昼?夕?夜」という言葉を探索してみました。
朝: 草間に日があらわれ、なお月影の残る様を示す。金文には月に代わって水をかき、潮汐の意を示す形のものがある。朝日が草の間からでる。振り向けば月。会意と形声文字。金文は草+日+水の合意文字。草の間から太陽がのぼり、潮が満ちてくる時を示す。
東の野に 炎(かぎろう)の立つ見えて
反(かえり)見すれば 月傾きぬ (柿本人麻呂)
昼: 旧字は畫に作り、聿と日とに従う。日の周辺にそれぞれ小線が加えられていて、暈(ううん)のある形、すなわち昼の晦(くら)い状態をあらわす。日の照る時間を、ここからここまでと筆でくぎって書く様を示す。
昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木(ねぶ)の花
君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ (紀女郎:きのいらつめ)
夕: 夕の月の形。説文に「暮れなり。月の半ば見ゆるに従う」と半月の象に従う。古く朝夕の礼とよばれるものがあって、朝には日を迎え、夕には月を迎えた。
月夜(つくよ)には 門(かど)に出で立ち 夕占(ゆふけ)問ひ
足占をそせし 行かまくを欲(ほ)り (大伴家持)
伊勢の海人の 朝な夕なに 潜くといふ 鮑の貝の
片思ひにして (作者不詳)
夜: 人影が横斜している形の大と月とに従う。説文に「舎(やど)るなり。天下休舎す。夕に従い、亦(えき)の省聲なり」とし、天下の人すべて休息する時であるという。
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情報:農と環境と医療53号 -
編集?発行 博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@学長室
発行日 2010年1月1日