東洋医学総合研究所の主管である北里研究所は、大正3年11月、北里柴三郎によって、各種疾病の原因究明、予防治療方法の研究、治療施設および教育施設の設置運営、さらに予防治療品の製造等を行い、国民保健の向上を目的に創立された私立の医学研究所です。 明治26年、北里柴三郎は、附属病院の前身であるわが国最初の結核療養所「養生園」を、福沢諭吉の援助により、芝白金に創立しました。その後昭和29年12月に5階建304床の病院として再建し、昭和48年には新館を増設し、334床の総合病院となりました。さらに平成11年5月には白金構内整備計画に基づき、北里研究所病院新棟が、さらにその2年後の平成13年に東洋医学総合研究所があるアネックス棟が完成しました。
一方、明治以後、学校医学よりしめ出されていた東洋医学はこれまで個人の努力の下にかろうじて継承されているのみで、組織的研究は全く行われていませんでした。そこで武見太郎日本医師会長ほか数名を世話人代表とし、植村甲午郎経済団体連合会長はじめ政界?財界からの応援を得て、大塚敬節を所長として、昭和47年(1972)6月、附属病院の並列として、東洋医学総合研究所が設立されました。この東洋医学総合研究所は、わが国最初の東洋医学の総合的な研究機関として東西両医学の長所を生かした治療と、東洋医学の科学的解明の研究を目的に開設されました。その後、平成20年4月に東洋医学総合研究所の母体である社団法人北里研究所と学校法人北里学園が統合し、学校法人北里研究所の一員となり、現在に至っています。
これまで初代所長の大塚敬節をはじめ、矢数道明(二代)、大塚恭男(三代)、花輪壽彦(四代)、小田口浩(五代)、そして六代の星野卓之ら各所長のもと、わが国における東洋医学の中心的役割を担うべく、診療並びに研究に取り組んできました。